小銃の設計作業と並行し、今度は教団で各種のプラント設計に携わっていた広瀬健一が5月に訪露し、銃弾の製造や部品の窒化処理についての情報収集を行い、窒化炉の設計に着手している。

 横山による設計は7月にはほぼ完了し、オウムが乗っ取った機械製造メーカーの機械を元に小銃試作が行われるが、ここで計画は行き詰まった。

 翌1994年2月、千葉市内のホテルで行われた会合で、小銃密造計画の体制が変更された。広瀬と豊田亨が計画に加わることや、1~2カ月以内に小銃1000丁を完成させることをについて麻原が指示を出した。

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 ところでこの1000丁という製造数には、麻原なりの根拠が存在していた。

 1992年に麻原が早川に対して、2・26事件で決起した兵の数を聞いたという。早川が「約1400人」と答えると、麻原は「今なら、1000人くらいで主要箇所を押さえることができるだろう」と語っており、このことが1000丁製造の根拠となったと考えられている。(朝日新聞1995年12月22日朝刊)

オウム真理教による地下鉄サリン事件で地下鉄駅構内から運び出される乗客(東京都港区の営団地下鉄神谷町駅) ©時事通信社

様々な武装計画を指示した中でも、とりわけ小銃には熱心だった

 また、この麻原の発言からは、自動小銃が教団にとって国家転覆の具体的な手段であった事が窺える。

 前出の広瀬は、自著の中で麻原の関心の持続力の無さについて書いている。麻原は様々な武装計画を指示したが、その関心が維持するのは最初の数カ月で、それを過ぎると関心を失って別の計画に気持ちが移ることがよくあったというのだ。(広瀬健一『悔悟 オウム真理教元信徒・広瀬健一の手記』朝日新聞出版)

 ところが自動小銃密造に関しては熱心で、毎日電話で進捗状況を確認するなど関心を2年以上にわたり維持していた。麻原にとって自動小銃は理想国家建設に欠くことのできないピースだったとみられる。

 以降もバリの処理問題、冷却のため鋳型に素材が入らないなどの問題が生じていたが、夏頃には麻原から早川に「2~3日で、AKが1日100丁のペースで全部で1000丁でき上がる。それを隠す場所を大至急作ってくれ」と指示が下った。

オウム真理教では工場施設などは「サティアン」と呼ばれた ©文藝春秋

 突貫工事で地下の隠し場所が作られたが、肝心のAKは1丁も完成することはなかった。しかし、麻原に銃の完成を予感させる進展が何かしらあったのかもしれない。

 1994年12月上旬になっても試作品は完成せず、麻原は広瀬を介して、年内に小銃をまずは1丁完成させるように横山を急かしている。翌1995年1月1日、完成を急いだ横山によって試作小銃が1丁麻原に献上された。

 この時、麻原は上機嫌で銃弾製造と、小銃と部品の隠匿を指示している。ちょうどこの日、読売新聞のスクープ記事として、オウム真理教の施設群がある上九一色村でサリン残留物が発見されたと報じられており、教団への捜査が迫っていたのだ。