1995年3月20日に地下鉄サリン事件が発生して今年で30年。誰よりも早くオウム真理教の危険性に気づき、取材を続けてきた不肖・宮嶋の貴重写真で強制捜査の瞬間を振り返る。(全4回の1回目/♯2、♯3、♯4を読む)
◆◆◆
1995年3月20日、首都の地下鉄に猛毒がまかれた無差別テロ
1995年3月20日午前8時に起きた地下鉄サリン事件。
死傷者6300人以上、化学兵器を使った大規模無差別テロが東京営団地下鉄(現・東京メトロ)霞ケ関駅を中心とした丸ノ内線、日比谷線、千代田線車内で引き起こされたのである。皇居や警視庁のある桜田門直下、まさに首都の心臓部であった。
無差別テロの一報に触れ驚愕したのは、海外の人々も同様だった。世界各国で報じられ、ナチス・ドイツですらあまりの残酷さのため実戦使用をあきらめざるをえなかったという猛毒のサリンが、日本の首都の地下鉄にばらまかれる無差別テロに耳を疑った。
しかし、我々には、それが誰によって引き起こされたのか、ピンと来るものがあった。この事件が起こった1995年、読売新聞元日号に「山梨県上九一色村(当時、現・甲府市、富士河口湖町)で松本サリン事件で検出されたサリンの残留物と同じ成分の物質が検出された」というスクープが打たれた。当時の上九一色村にはすでにオウム真理教の“サティアン”と言われた犯罪拠点が点在し、周辺住民とトラブルを起こしていたのはオウム真理教の取材を進めていたジャーナリストらにとっては周知の事実であった。だがオウム真理教の報復や凶暴性を皆恐れ、読売紙面にオウム真理教の「オ」の字もなく、また他メディアにも後追い記事が出ることはなかった。
読売の元日スクープだけではない。2カ月後の1995年3月になると、宗教法人を隠れ蓑にあらゆる犯罪に手を染め、やりたい放題だったオウム真理教も警視庁の強制捜査が秒読み段階といわれてきた。そのきっかけは全財産を差し出すよう脅迫されていた信者を匿った目黒公証役場の仮谷清志さんを拉致した容疑である。
自白剤を過剰投与されたショック死した仮谷さん
目黒公証役場事務長だった仮谷清志さん拉致事件も酷いものだった。地下鉄サリン事件の3週間前、麻原彰晃の命を受けた信者9人が役場から出てきた仮谷さんを押し倒し、レンタカーに押し込んだ。そして上九一色村の第2サティアンまで拉致し監禁した。
オウム真理教附属病院院長という幹部で、地下鉄サリン事件の実行犯でもあり、現役医師の林郁夫と坂本弁護士一家殺害事件の実行犯で同じく医師の中川智正が仮谷さんが匿っていた信者の居所を聞き出すために自白剤を投与したものの、過剰投与で仮谷さんはショック死。遺体は信者の忠誠度を試すために、さらに首を絞められた後、巨大電子レンジのような焼却炉で焼かれたうえ、骨や灰は砕かれ、さらに硝酸で溶かされたのち、本栖湖に捨てられ殺人の証拠は隠滅されたのである。
オウム真理教はこのような凶悪犯罪を全国各地で引き起こしていたのである。