1995年3月20日に地下鉄サリン事件が発生して今年で30年。不肖・宮嶋は事件発生前からオウム真理教の危険性に気が付いていたという。貴重写真と共に地下鉄サリン事件を引き起こす前のオウム真理教の異常性、そして不肖・宮嶋が初めて麻原彰晃を目撃した瞬間を振り返る。(全4回の2回目/♯1♯3♯4を読む)

 

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「麻原彰晃マーチ」で恥ずかしい踊りを繰り返す一団が出現

 オウム真理教の異常性に初めて気が付いたのは、36年前当時の6畳一間の拙宅「つつみ荘」の近所であった。最寄り駅の井の頭線浜田山駅前から杉並、渋谷、中野区近辺でけったいな青い象の被り物をした若者らが現れだしたのである。手には「麻原彰晃パフォーマンスやってます」のプラカードを掲げ、もはや雑音でしかない、いわゆる「麻原彰晃マーチ」の調べに乗せて、見ているこっちが赤面してしまうような恥ずかしい踊りを繰り返す一団である。

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 そのころからしっかり写真を撮っている。そして麻原が写ったポスターが区内のいたるところに貼られ、中野サンプラザ(当時)始め、都内各地のコンサートホールで「麻原彰晃アストラル・コンサート」と銘打った、小学生の学芸会レベルの音楽会を開催しだしたのである。

1990年ごろ、杉並、渋谷、中野区を含めた東京4区(当時)内で麻原のお面をかぶって歌って踊る一団が出没しはじめた。衆議院選挙で麻原が立候補予定だったためである
1990年ごろ、原宿の歩行者天国で麻原の似顔絵の入った風船をバラまく信者ら
1990年ごろ、渋谷スクランブル交差点ではオウム真理教音楽隊を先頭にして宗教弾圧反対や消費税廃止の選挙公約を掲げたデモを行なっていた。あの耳について離れない「麻原彰晃マーチ」は麻原を呼び捨てにするのは不敬と、オウム自身がタイトルも歌詞も「尊師マーチ」「尊師」に変えた
通り過ぎる市民にも危機感もなく、取材していたのは私一人。しかし怪しげな彼らの凶暴性は明らかであった

 このけったいな集団の正体は何や? 首魁の麻原彰晃とはいったい何者や? と最初はキワモノ扱いの取材対象としか見ていなかった。そのアストラル・コンサートとやらにも足しげく通ったものの、麻原は姿を現すことがなかった。

東京中野区、麻原が立候補する選挙区での事前選挙運動。先頭で笛を吹いて音頭をとっているのは、当時オウム真理教防衛庁長官だった岐部哲也。この写真は『週刊文春』に掲載されたときは「何だ、これは?ひょうきん族か?」のタイトルがつけられた。『週刊文春』含め全メディアにFAXでこのデモ行進(事前運動)の連絡がきたはずだが、取材したのは私一人。行進前には新實智光が信者らに「事前運動になるので、尊師の名前を連呼しないよう」と注意があった
 

怪しさを感じ単身、富士宮市のオウムの総本部へ

 そこで当時静岡県富士宮市にあったオウムの総本部まで単身、自家用車で取材に出かけることにした。当時在籍していた週刊文春グラビア班の仕事として、でなく、単なる興味本位と、やはり拙宅のまわりに集まりだした連中とその首魁に怪しいものを感じたからである。総本部が遠くから見渡せるお好み焼き屋の駐車場で張り込みを始め数日たった昼前、総本部前近くにタクシーが止まり、人だかりが見えた。なにかあると、カメラをひっつかんで、近づく。

富士宮にあった総本部、4mの脚立から坂本弁護士を捜す

 そのうちの一人に名刺を差し出すや、「横浜弁護士会」の弁護士と身分を明かされた。なぜ横浜の弁護士が富士宮に、その来意を尋ねるも、言葉をにごすばかり。やがてタクシーでそのままどこぞに消えられた。

 狐につままれたように、そのまま暗くなるまで張り込みつづけ、夕方編集部にその旨、連絡をいれ、なにか情報はないかと尋ねるや、在席していたデスク(当時)が血相変え、いや、声色が変わり、ただちにその場から離れ、まっすぐ東京に帰るよう指示された。