消えた坂本弁護士一家、残されたオウムのバッジ

 編集部でデスクから渡された夕刊には横浜の坂本弁護士一家3人全員がなぜか布団とともに消え去ったこと、現場には血痕と宗教団体のバッジが残されていた、としか書かれていなかったが、デスクからは、そのバッジがオウム真理教の“プルシャ”と呼ばれるものであること、坂本弁護士がオウム真理教のインチキぶりやその被害の非道さを世間に訴えるためにも訴訟を準備していたことを知らされた。

 そこまで分って、デスクからオウム取材へのゴーサインがでた。オウム真理教の施設はどこも刑務所のような高い塀に覆われていたため、昭和天皇崩御の取材の際に二重橋前広場で使用した高さ4mの巨大脚立や、それを富士宮まで運び込むため2トントラックも必要な事を具申し、取材メンバーもそろい、私とオウムとの最初の対決は1989年11月上旬となった。

再び富士宮市のオウム総本部へ

 私が2トントラックのハンドルを握り、記者を助手席に巨大脚立を荷台に乗せ、早朝、編集部を出発、10時前には富士宮市に到着。あいにくの曇天下だったが、総本部前の空き地にトラックを停め、脚立を2人がかりでかかえ、道路を横断、歩道で脚立を組み立て、記者に足場を押さえてもらい、私が登り、天板に腰掛けて、目を凝らした。総本部のなかからオウム服を着た若い信者が2、3人出てきたが遠巻きにこちらを眺めているだけであった。

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 しかし、総本部の中はまさにゴミため状態、乱雑にそこかしこに、鉄パイプ等金属部品や古タイヤなどが積み上げられ、バールを抱えた信者らしき若者1人がウロウロしているだけであった。このどこかに坂本弁護士一家が囚われているかもしれぬと目をこらすものの、見当たらず、早々に現場をあとにした。ここで張り込みを続けていた時も教団内部から漂うオウムの異様な雰囲気を察知し、とんでもないトラブルに巻き込まれるかと不安であったが、なんだか拍子抜けしたようであった。

 編集部に帰り、フィルムを現像、プリントをあげたが、デスクは不満げであった。写真だけ見ると単なるごみ集積場である。晴れていれば背景には富士山が見えるはずだったがそれも厚い雲に隠れて見えない。ページタイトルを「富士山麓にオウム鳴く」と考えていたデスクから次の日も再撮を指示され、翌日また早朝富士宮に向かうこととなった。今度は同僚だが年上のMカメラマンとである。

 昨日と全く同じように総本部前の空き地にトラックを停め、2人がかりで脚立をかかえて道路を渡り、歩道に脚立を組み立て始めたときである。