『地下鉄サリン事件はなぜ防げなかったのか 元警察庁刑事局長 30年後の証言』(垣見隆 著/手塚和彰、五十嵐浩司、横手拓治、吉田伸八 編著)朝日新聞出版

 1995年3月。20日に地下鉄サリン事件が発生し、22日に警察がオウム真理教の施設へ一斉捜索に入った。なぜ2日後だったのか。警察が強制捜査の時機を逸していった経緯が、本書を読むとよくわかる。

 地下鉄サリン事件を防げたはずのタイミングは、少なくとも三度あった。

 89年11月、坂本堤弁護士一家3人が行方不明になる。翌年、遺体を埋めた現場の写真と地図を入れた匿名の手紙が神奈川県警に届き、その場所を二度捜索したが発見できず。送り主が実行犯の1人である岡﨑一明元死刑囚と突き止め、接触を重ねるが、供述は引き出せなかった。遺体は95年9月になって、手紙に示された場所から発見されている。

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 94年6月、松本サリン事件。8月には、オウムの関連会社がサリンの原材料を購入していたと判明。11月、山梨県上九一色村(当時)の教団施設付近の土壌から、サリンの残渣物を検出した。

 95年1月、オウム真理教被害者の会(当時)の永岡弘行会長が、猛毒の化学剤VXで襲撃され重態となる。搬送された病院がサリンの症状を認めなかったため、警視庁はあろうことか「農薬で自殺を図った可能性が大」と判断した。

 警察庁はオウムがサリンを作っていると確信し、94年12月には國松孝次長官ら幹部の会議で強制捜査の意思を固めながら、時期尚早とした。刑事局長の職にあった垣見隆氏は本書で、「反省」という言葉を何度も述べている。

 垣見氏は、東大法学部在学中に国家公務員採用上級(甲種)試験(当時)と司法試験に合格し、警察庁では長官候補と目されるエリート官僚だった。しかし、オウム事件後の95年9月に更迭。翌年には警察を辞職し、公に発言する機会は少なかった。捜査の責任者だった垣見氏の詳細な証言には、歴史的価値がある。

 垣見氏が著者となっているが、本文は4人の聞き手との一問一答で構成されている。聞き手は先を急ごうとせず丁寧に質問を重ねるので、捜査の経過が理解しやすく綴られている。

 教祖・麻原彰晃をはじめとする信徒たちの裁判で、一連のオウム事件の外形的な事実は明らかになった。しかし彼らが、大量殺人を善行と信じ込まされ、凶行に駆り立てられていった宗教的な背景は解明されず、課題として残されたままだ。

 ここへ至る道筋は、捜査着手前から敷かれていたことが読み取れる。垣見氏ら幹部は戦前の大本事件の記録を取り寄せたが、「宗教団体の過激化の例として読んだのではなく、宗教団体の取り締まり方法について学ぶ」ためだった。

 警察のオウムへの視線は“化学兵器を扱うテロ集団”であって、カルト宗教の論理や特異性への考察は欠けていた。事件から30年。垣見氏は本書で、カルト対策の議論やガイドラインの作成を提唱している。

かきみたかし/1942年、静岡県生まれ。1965年、東京大学法学部卒業後、警察庁入庁。警視庁神田警察署長、福井県警察本部長、警察庁刑事局長、警察大学校長などを経て、1996年、警察庁退職。1999年、弁護士登録。現在、第一東京弁護士会所属弁護士。
 

いしいけんいちろう/東京都生まれ。フリーライター。週刊文春記者時代からオウム、統一教会、パナウェーブ研究所等のカルトを取材。