オウム真理教によるテロ事件といえば、地下鉄サリン事件、松本サリン事件といった多くの犠牲者を出した化学兵器によるものがまず浮かぶ。他にも、数多く実行されながらも様々な問題から効果がなかった生物兵器によるテロといった、教団の技術的未熟によって実現しなかったテロも多い。
その中でも教団による「自動小銃密造計画」は、化学兵器や生物兵器と比べると影が薄い。しかし教団の計画は国家転覆を目的とした軍用の自動小銃1000丁を密造するというもので、その規模は時折摘発される個人による密造と比べても遥かに大きいものだった。
前代未聞の事件であるにもかかわらず、ネット上でも断片的に伝えられるに留まっている教団の「自動小銃密造計画」について、ここで明らかにしたい。
教団が小銃密造に着手するのは、1992年の暮れに教祖である麻原彰晃(本名:松本智津夫)が、教団の科学部門トップである村井秀夫に対して銃の調査を指示したことから始まる。
麻原からの指示をうけ、1993年2月に教団の対ロシア窓口であった早川紀代秀のアテンドの下、村井らがロシアに渡航。ロシア軍の小銃であるAK74工場の見学はできなかったが、大学研究室でAK74の実銃分解、コブロフ市内のデグチャレフ工場(AKではなく機関銃工場)、博物館を訪問し、その様子を8ミリビデオに収めている。
この際、AK74の実物を借りて数日にわたって採寸が行われたが、一部が素手で分解できなかったため、村井が日本の麻原に電話し、実銃1丁を購入する了解を得ている。そうして村井はAK74と銃弾を入手した。購入したAK74は分解され、部品はX線遮断袋、銃身はゴルフバッグに隠されて日本に持ち込まれている。
「V・Vプロジェクト」と命名された小銃密造計画
この実銃の入手ルートについては、裁判で証言が行われている。
最初、早川はホテルの前で客待ちをしているタクシーがマフィアの系列と聞き、タクシーの運転手に銃がほしいことをアピールするため、AKの通称である「カラシニコフ」と呟き続けたが無視されたという。
しかし気の毒に思った通訳のロシア人青年が、友人の軍人を通じて実銃のAK74を1丁入手してくれたと、当の早川本人が裁判で証言している。(江川紹子『オウム事件はなぜ起きたか 魂の虜囚(上)』文藝春秋)
日本国内に持ち込まれたAK74を基に、小銃製造計画の責任者であった横山真人によって75枚の図面が書き起こされた。教団による小銃密造計画は、横山のホーリーネーム(教団の宗教名)である「ヴァジラ・ヴァッリィヤ」からイニシャルを取り、「V・Vプロジェクト」と命名されている。