9カ月前には“松本サリン事件”も…そしてサティアン強制捜査へ

 化学兵器を使ったテロ事件は、地下鉄サリン事件が最初ではなかった。さかのぼること約9か月前の1994年6月27日、オウム真理教の長野県松本支部立ち退き裁判を担当する判事を殺害するため、かつサリンの人体実験も兼ねるという動機から無差別テロが実行され死者8人、負傷者600人以上を出す、“松本サリン事件”を引き起こしていた。

 30年前の3月20日前後は現在の30歳以下の若い世代が想像もできぬ、そのような世情だったのである。そんな3月20日、地下鉄サリン事件が引き起こされた午前8時前後に私は厚木から岩国に向かう海上自衛隊のYS-11機内にいた。広島県江田島の海上自衛隊幹部候補生学校での卒業式を取材するためである。機内で一報に触れ、その日のうちに帰京した。

 そして近々始まると言われていたオウムの教団施設であるサティアン群への強制捜査に上九一色村で備えていた。果たしてサリン事件のわずか2日後の3月22日、麻原彰晃らが立てこもり、サリン密造工場もあった第6、第7サティアンと呼ばれた施設には陸上自衛隊の防護服とガスマスクに身を固め、ガス検知のためカナリアの籠を抱えた機動隊員を先頭に警視庁の捜査員が続々現れては電動カッターなどでドアをぶち破っていった。さらに日本全国の教団施設にも続々強制捜査が始まったのである。

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1995年3月22日から始まった警視庁による一斉捜査。サリンの原料と思われる物質を押収していく。なお防護服とガスマスクは当時警視庁に充分な数はなく自衛隊から借りていた。さらに陸上自衛隊の74式戦車がこのときオウム真理教のテロに備え待機していたという
1995年3月22日の強制捜査初日、毒ガス検知用のカナリアが入った籠を持ち化学防護服とガスマスクで完全武装の警視庁機動隊員。彼らを先頭に第6サティアンに捜査員が次々突入
していく
オウム真理教が強制捜査に対しテロを起こすおそれもあったため、除染剤散布の準備も怠らなかった機動隊員

 それをきっかけにいままでオウムに沈黙していただけの新聞、テレビなどのメディアもやっと事件の重要性に今更ながら気づき、大規模な取材陣を組んでいったのはご存じのとおりである。

我が国にとって、初めて猛毒の神経ガスを使った大量無差別テロ事件。3月22日早朝、自衛隊の化学防護服やガスマスクに身を固めた捜査員を見た私は、とうとう自衛隊までが治安出動したと手が震えたのを思い出す

 麻原は報道陣に見守られるかのごとく、約2か月後の5月16日、第6サティアンの隠し部屋で札束を抱えて震えあがっているところを、捜索中の警視庁捜査員に発見、逮捕され、以後一度も陽の目を見ることはなかった。そして23年後の2018年7月6日、地下鉄サリン事件、坂本弁護士一家殺害事件等の実行犯の幹部信者らとともに東京拘置所の刑場の露と消えた。

強制捜査後もサティアンへの家宅捜査と麻原の捜索はつづいた。第6サティアンに早朝、家宅捜査にかかる警視庁機動隊員と捜査員ら
3月22日、第6サティアンから意識不明の状態で担ぎ出されるオウム信者
1995年3月22日、第6サティアンから捜査員らにより連行される信者たち

 私は逮捕後、東京拘置所に移送され初公判を控えた最後の麻原彰晃の姿の撮影に成功したが、地下鉄サリン事件前の1989年からオウムと戦い続けていた。それは孤独で虚しい6年にも及ぶ取材であった。

1995年5月16日、早朝、警視庁捜査員に発見され、麻原彰晃は逮捕された。札束を抱え第6サティアンに隠れていたという。同時に警視庁にも一報が届き、日本全国に速報された。警視庁までは中央自動車道を通り、その沿道には逮捕の速報を見た市民らが雨天にもかかわらず駆けつけた。パトカーに先導された黒のワンボックス、警備の車両にテレビ局や新聞社のバイクが続く

写真=宮嶋茂樹