「プロレスの神様」力道山の最大のタブーとは?
「戦後最大のヒーロー」「プロレスの神様」「日本プロレス界の父」……。力道山を形容する言葉は尽きない。大正13年(1924年)、朝鮮で生まれる。本名は金信洛、創氏改名で金村光浩となる。現代においては、もはや自明だが、出自が朝鮮である事はメディアにおいては当時最大のタブーであった。
13歳の時に朝鮮相撲の大会に出場し、3位となる。15歳で二所ノ関部屋に入門するや、破竹の勢いで勝ち続ける。序ノ口からわずか九場所で十両に。とんとん拍子に番付を上げ、24歳で関脇まで昇格。大関も視野に入れた場所前に体調を崩す。
咳、痰、そして吐き気がおさまらず、体重が20キロも減少。場所前に川ガニを食べたのが原因で肺ジストマになり、復活は絶望的とみられた。自宅を売るなどして、治療費を捻出し、その後復調するものの、出自の問題もあってか冷遇されたため、自ら廃業を決める。
その後、たまたま来日中のプロレスラーと酒場で知り合い、プロレスに興味を持つ。アメリカに武者修行に旅立ち、300試合をこなし、帰国するが、力道山が単なるレスラーでなかったのはこのとき全米最大規模のプロレス団体(NWA)のプロモート権を引っ提げてきたことである。
これにより力道山は敗戦国日本のレスラーがアメリカの世界チャンピオンの大男をなぎ倒すというシナリオを描き、日本に空前のプロレスブームを巻き起こす。本人はこう振り返っている。
「日本人は肩書きに弱いからな、世界チャンピオンと聞いただけで無批判にあこがれちゃうんだ。おまけに、相手は鬼畜米英を絵に描いたようなアメリカの大男だ。だから、あのとき、日本での第一戦によぶのは絶対にあの二人じゃなくちゃダメだったんだ。そのためにワシはファイトマネーもやつらがアメリカの本場で稼ぐ三倍も出したんだ。あとは賭けだ。根性だ。しかし毎日新聞が後援してくれることが決まって、テレビとの提携ができてからは、もう何も心配はしなかった。これで当たらなきゃおかしいと思ったからな――(後略)」
[『力道山をめぐる体験プロレスから見るメディアと社会』小林正幸、風塵社]