人生100年時代と言われる現代だが、今の日本は経済力が大きく上向くことは期待できそうもない。年金制度は崩壊し、会社も社員の老後の保障どころか、今現在の給料の引き上げにも慎重だ。国や会社を頼れないなかで、どのような心持ちで働けばいいのか。
ここでは、偉人たちの「生き延び方」から、今の現代を生きるヒントを見出した作家・栗下直也氏の著書『偉人の生き延び方 副業、転職、財テク、おねだり』(左右社)より一部を抜粋。“伝説のプロレスラー”力道山のビジネス術を紹介する。(全2回の2回目/最初から読む)
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良くも悪くも力道山あってのビジネスだったリキグループ
力道山はリキ・スポーツ・パレス(編注:力道山が15億円を投資して渋谷の道玄坂に建てた複合施設ビル)以外にも不動産事業や観光事業などを手広く手掛け、5つの会社でリキグループを形成していた。アパートやマンションなど不動産事業を中心に全体を束ねるリキエンタープライズ、プロレス興行の日本プロレス興業、パレスを運営するリキスポーツ、ボクシングジムを経営するリキボクシングクラブ、そして相模湖畔のレジャーランド建設のためにつくられたリキ観光開発だ。
華やかな企業グループにも映るが、内情は自転車操業だった。力道山のビジネスは良くも悪くも力道山あってのビジネスで、力道山がリングに立たなければ回らなかった。当然、力道山が死んだことで全ての事業が急ブレーキを踏むことになる。一番の問題はレジャーランド開発で総工費は約17億円と巨額だったが、土地の造成すらままならなかった。
パレスを担保に借り入れで回したが、資金繰りは厳しくなる一方だった。パレスのレストランは「力道山がいる」、「力道山の知り合いの有名人がくる」ことに価値があったわけで、亡くなれば有名人の客足は遠のく。有名人がこなくなれば一般人もこなくなる。飲食店の、人が人を呼ぶ勢いはすごいが、いなくなるときはもっとはやい。
ボウリング場も力道山の死後、競合が雨後の筍のようにでき、パレスは設備が古いこともあり次第に見向きもされなくなった。日銭が稼げなくなれば、途端に台所事情は厳しくなる。
借り入れをさらに増やしてどうにかしようとしても金利が重くのしかかる。「これはたまらん」と力道山の死から3年後にリキ・スポーツ・パレスは債権者の西山興業に譲渡される。
西山興業はニシノフラワー、セイウンスカイなど競走馬の生産者・馬主として知られるが当時は高利貸しが主業だった。同社もパレスを近畿観光に売却し、近畿観光はキャバレーに業態転換するも、立地条件なども悪く流行らなかった。サウナや吹き抜けの構造があだとなり、使い勝手が悪いこともあり、結局、バブル崩壊後に建物は取り壊されている。