「当時の金額で15億円をかき集め、夢の実現に動いた」力道山のビジネスの才覚
力道山はレスラーである以前にビジネスマンだった。こうしたビジネスの才覚はプロレス以外でも発揮された。
昭和36年(1961年)年7月には渋谷の道玄坂に「リキ・スポーツ・パレス」が完成する。力道山は常々、「プロレスにも相撲の国技館のような常設会場が欲しい」と考えており、当時の金額で15億円をかき集め、夢の実現に動いた。これ、今ならば、約60億円の投資だ。プロレスの常設会場にとどまらず、プロレス引退後を見据えた一手でもあった。
地上9階地下1階のビルで、1階はボウリング場、スナックバー、2階はスチームバス、レストラン、喫茶店、ボクシングとレスリングのジム、3階から5階が円型の体育館でプロレス常設会場、6、7階は女子ボディビルジムといったスポーツ多目的ビルである。
4階には社長室があり、当然そこにいるのは、力道山である。
今でこそこうしたビルはめずらしくないが、東京オリンピックが行われる3年も前の話である。力道山の発想がどれほど日本人ばなれしていたかが窺える。
[『世界大富豪列伝 20ー21世紀篇』福田和也、草思社]
「リキ・スポーツ・パレス」で大きなインパクトを与えたが…
確かに現代の感覚からするとよくある複合施設ビルだが、当時としては先端だった。そして、リキ・スポーツ・パレスはビジネスモデルが考え抜かれていた。単なる寄せ集めの複合施設ではなかった。
例えば当時、ボウリング場は都内にはまだ珍しかったため何もしなくても客が来た。ボウリングを楽しんでお腹が減れば、何か食べたくなり施設内のレストランや喫茶店を利用する。そこには力道山や彼の知り合いの有名人がいる。「えっ、あれ力道山じゃん!」となる。有名人が利用するレストランとなれば、ボウリングと関係なく、それを目当てに訪れる客もでてくる。
当時は当たり前だが、YouTuberなどいない時代だ。有名人と一般人の間には大きな壁があっただけに、これはかなり大きなインパクトがあった。「有名人を見られるかも」と、人が人を呼び、リキ・スポーツ・パレスは「イケてる場所」になったのだ。実際、落成式には当時大スターだった美空ひばり、江利チエミ、雪村いづみがショーに出演している。
ところが、一寸先は闇といったものだ。力道山はリキ・スポーツ・パレスが完成した2年後に急死する。飲み屋でヤクザと喧嘩になり、ナイフで刺される。傷自体は大したことなく、全治2週間程度と見られていたが、事件から1週間後に永眠する。関係者によると、死因は医療ミスともいわれているが定かではない。
その他の写真はこちらよりぜひご覧ください。