だから身請け金1億4000万円をポンと支払えた
こうした盲人たちの組織として、幕府から保護されていたのが当道座(とうどうざ)で、鳥山検校はそのトップの1人だった。蓄えた資産は1万5000両(15億円程度)とも20万両(200億円程度)ともいわれる。瀬川を身請けした安永4年(1775)には30歳そこそこだったので、いかに短期間に莫大な材をこしらえたかである。
安永年間(1772~81)には、大金持ちの盲人たちが次々と吉原に押し寄せては、高級遊女を買い上げ、豪遊するようになったが、その原資はいうまでもなく、貧しい人に高利で貸し付け、回収した金だった。
ところで、盲人はそれ以前から吉原に出入りしていたが、どちらかというと、女郎から好かれてはいなかったようだ。目が見えないため、女郎の顔や身体を手でべたべたと触ることが、とくに嫌がられたという。
また、ほかの客からも、盲人は嫌悪されがちだったようだ。安永8年(1779)刊の洒落本『廓中美人集』には、金払いがいいからと盲人を受け入れる花魁たちと、花魁がいかに美しいか見ることができない盲人が、金に飽かせて豪遊していることへの、一般の客の不満などが書かれている。
陰湿で執拗で強圧的な取り立て
さて、座頭金の貸付期間は通常半年で、前述のように幕府から優先権まで認められた取り立ては苛烈をきわめた。幕府から公認されていることを笠に、かなり強引なこともしたようだ。ここでは井上ひさしが戯曲『藪原検校』で描いた取り立てを紹介しておこう。
最初に「居催促(いざいそく)」。これは盲人が数人で債務者のもとに行き、家に入り込んで返すまで待つというものだ。穏やかな取り立てに思われるかもしれないが、暗闇を苦としない盲人が昼夜を問わず居続けるのは、かなりのプレッシャーになったようだ。
それでも返してもらえないと、「泣き催促」に転じた。周囲に響き渡る声で自分の悲惨な境遇を訴えながら泣き喚くというもので、世間体を気にした武士階級に対しては、かなりの効果があったようだ。それでもダメだと「強催促」に転じた。すなわち、債務者の周囲で罵詈雑言のかぎりを尽くして返済を迫った。