こうして、債務者を自死寸前にまで追い立てることが珍しくなかった。繰り返すが、彼らはそうして得た金を吉原での豪遊に投じ、瀬川のような花魁を身請けしたりしていたのである。

しかし、安永7年(1778)、綾瀬はるかの言葉どおりに「世の仕組みは軋みはじめ」ることになる。この年、知行600石の旗本、森忠右衛門(ちゅうえもん)が妻とともに逐電するが、原因は座頭金による多額の負債をかかえていたことだった。

忠右衛門もまた、いったんは自死を図ろうとしたが止められ、逃れている。そして逃れた先で剃髪すると、その後、ほかの事件への関与を疑われることを恐れて出頭。町奉行所の取り調べの結果、座頭金による法外な高利貸しの実態が、明るみに出ることとなった。幕府にとっても、さすがに直臣たる旗本が夜逃げするような事態を招いているとあっては、もはや放置できない。

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その後の瀬川が気になる

こうして、江戸随一の富豪になっていた鳥山検校以下、8人の検校が、幕府の優遇策を逆手にとった法外な高利貸しの罪を問われることになった。全財産没収のうえ、江戸そのほかから追放され、さらには検校職も奪われ、当道座も除名となった。文字通りにすべてを失うことになってしまった。

江戸後期の随筆集『譚海(たんかい)』には、検校たちが高利貸しによって処分されたという記述に続いて、「鳥山検校と云もの、遊女瀬川といふを受出し、家宅等の侈りも過分至極せるより事破れたりといへり」と記されている。吉原での豪遊や瀬川の身請けについても、幕府から指弾されたのである。

その後、鳥山検校はほかの元検校らとともに赦免され、12年後の寛政3年(1791)に復官したという。若くして莫大な財産を築き上げるくらいだから、なかなかしぶとかったようだ。一方、多くの人を苦しめた金で身請けされた、というイメージがついてしまった瀬川のその後が、はたして幸福なものとなったのかどうか、気になるところである。

香原 斗志(かはら・とし)
歴史評論家、音楽評論家
神奈川県出身。早稲田大学教育学部社会科地理歴史専修卒業。日本中世史、近世史が中心だが守備範囲は広い。著書に『お城の値打ち』(新潮新書)、 『カラー版 東京で見つける江戸』(平凡社新書)。ヨーロッパの音楽、美術、建築にも精通し、オペラをはじめとするクラシック音楽の評論活動も行っている。関連する著書に『イタリア・オペラを疑え!』、『魅惑のオペラ歌手50 歌声のカタログ』(ともにアルテスパブリッシング)など。
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