不登校の子どもたちは不幸?

おおた 非認知能力が少ないと将来労働者としての価値が減る——。つまり競争社会で勝ち抜く武器としての非認知能力を前提にした体験格差議論に私は違和感を覚えるんです。

西野 そのことによっぽど気をつけないと、世界はあっという間にそっちに行ってしまうから。どうやって警鐘を鳴らすか……。結局「しあわせってなんだ?」って話になっちゃうね。

おおた 本当ですね。しあわせを、消費とか、お金とか、能力とかに結びつけることへの警戒心を持ち続けないといけないですね。

ADVERTISEMENT

西野 それがすごく大事だと思います。

おおた ある団体が行った体験格差に関する全国調査では便宜上、学校の中での体験はみんなに共通の体験として捨象して、学校以外での学びを「体験」と定義しています。一方、不登校の子どもたちは学校を体験していない状態です。そこでちょっとねじれた質問をします。不登校の当事者から、体験格差の議論はどう見えるのでしょうか。

西野 学校に行けばいろんなことが体験できるのかもしれないけれど、それがその子にとってしあわせなのかってことだよね。学校に行くという体験ができなかった子どもは、それはそれとして人生のなかで受け入れるしかない。学校に行っていた子に比べて、もしかしたらある部分での体験は少ないかもしれないけれど、みんなができている体験が同じように得られないことをかわいそうだと考えるのはちょっと違いますよね。

おおた 学校に行かないという貴重な体験をしているわけですからね。

子どもたちはただまったりとそこにいる ©おおたとしまさ

西野 不登校経験者はみんな言うよ。「あの時間があったからいまがある」って。

おおた 言いますよね。病気で長期間入院するのも体験だし、ゲーム機を買ってもらえないのも体験だし、生きていればすべてが体験で、大切なのはそこから何を学ぶかですね。それが単なる事実としての「体験」を、自分にとっての意味をもつ「経験」に変えていくということだと思います。実際、西野さんが運営する「フリースペースえん」の子どもたちは、学校では絶対に体験できない「まったり体験」をしていました。認め合って譲り合って融け合って、あそこにいました。あそこにいること自体が、人生観が変わる体験だと思います。世の中が、ああなっていけばいい。

西野 だから、誰かのモノサシで見れば「体験が足りない、かわいそうな子」に見えちゃう子がいたとしても、体験は量の問題じゃないんだよね。その時間をいかに自分らしく楽しくしあわせにいられたのかが大事だから。就学援助家庭を対象に、夢パークに通う交通費を支給したり、僕らの合宿に参加するお金を税金から出してもらったりという意味では体験格差是正のための動きをしています。でも、生活困窮家庭へのさまざまな支援の一環としての体験活動参加への支援と、競争社会における能力獲得の機会の不平等の話は、分けて考えないといけませんね。

最初から記事を読む 「あの子はディズニーランドに7回も行ってずるい」…体験が多い子どもが幸せだと刷り込む「体験格差」への違和感