「格差」というキーワードで利権を争っている

おおた ルソーの時代くらいから?

五味 ルソーの時代に「子どもが発見された」って言い方があったよね。子どもは「小型の大人」じゃなくて、子どもっていう一つの生き物なんだっていう発見で、それは遅きに失してるんだけど、つまり「子どもは大事だよね」って、いまさら言うなってことを言ったわけ。

おおた もっと原始的な社会ではそれは当たり前のことだったんだろうと思いますが、特に西洋では、それをどこかで忘れてしまったんでしょうね。それをルソーの時代に思い出した。

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五味 だけど「子どもの成長って何だ?」ってことに関する科学的な視野がそこからほとんど進歩してなくて、国家が義務化したから、「学校」っていうのが驚くほどいい産業になるんだよね。毎週2回は寿司を食べなさいみたいに寿司屋も蕎麦屋もみんな義務化すればもう商売は本当に安定なんだよ。

©文藝春秋

おおた 本当ですね。

五味 「格差」というキーワードでこの利権を争っているのが次の動きよね。最初に言葉ありきなんだよ。これが実はキーワードになってお題目化して、どうやって産業化するかって動きなんだよ、ぜんぶ。でもこれ、許すしかないんだよね。だって産業の自由、商売の自由でしょ。僕たちも本を出す出版の自由っていうのを保障されてるからありがたいんだよね。だから勝手にものをつくってる。勝手なこと言ってていいんだよ。

おおた たしかに。

五味 みんな勝手なこと言って、それに対して「そういうのは馬鹿だよね」っていうのも勝手に言えばいい。それが議論で、一応議論をずっとやってけば、民主主義のもとはできるんだ。だけどそのディベートが、ネットの社会になったときに、肉声じゃなくて活字化しちゃったんだよね。「それは差別だ!」「それは格差だ!」「それは何とかかんとかだ!」って。

おおた はい。

©文藝春秋

五味 そこは勝手にやってればっていうのが俺のいまの基本ね。いちばん不毛なのは「何とかは良くない」「何とかだから何とかだ」って言ってるレベルでのSNS的なやつ。 だからいま、ネットに関係なく、他人の意見に関係なく、一般論に関係なく、自分のやり方っていうのをそれぞれが可能な限り自分で考えることができるかってのが勝負どころじゃないかな。でも教育が産業化するなかで、お金もらったぶんだけ「教えましたよ」ってことが先になっちゃって、子どもが自分で考えるってことの色が薄くなっちゃったのね。

おおた あー。

五味 そこで「体験」っていう言葉を少し文学的に言えば、「体が知る」ってことだよね。「体に教える」じゃないよね。簡単でしょ。自分がガキのころに基本的に思った感覚っていうのは「ほっといてよ!」って感じ。落ち葉はどうのこうのとか、星の光は何万年も前にうんたらかんたらとか、「いいから!」って。「そのうちびっくりするから!」って。

おおた それ面白いですよ! 子どものときそう思ったんですか?