類いまれな決断力と実行力で「コンピューター付きブルドーザー」と称された、田中角栄元首相(1918〜1993)。長く秘書官として支えた小長啓一(こながけいいち)氏(通産事務次官を経て、執筆当時は財団法人「経済産業調査会」会長)が、人間味にあふれた知られざる一面を振り返る。

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小長啓一が見た田中角栄(名刺をもらわない大臣)

 昭和46年7月に田中さんが通産大臣に就任したとき、通産省の官僚だった私は秘書官になりました。田中さんは53歳、私は41歳。同じウマ年でひと回り違いです。その前の通産大臣は宮沢喜一さんで、新大臣が宮沢さんより若ければ、私より若い者が秘書官に就く予定でしたから、まさしく運命的な出会いでした。

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田中角栄 ©文藝春秋

 秘書官の仕事は毎朝、目白の田中邸へ出向き、1日の日程説明をすることから始まります。ある日は12時から、産業構造審議会の会議が入っていました。すると田中さんは、

「今日、誰かの葬式はなかったか?」

 と尋ねます。確かに1時から葬式があったのですが、今日の会議は通産省にとって非常に重要です。私は、会議を優先する日程を組みました。するとこう諭されたのです。

「結婚式と重なったのであれば、君の判断で正しい。しかし葬式は、今日を逸したらその人と永久に会えないんだ。今日はどうしても会議で葬式に行けないのなら、オレをお通夜に行かせるべきだった」

 そして田中さんは、葬式が始まる前の会場を午前中にひとり訪れ、故人とお別れをしました。その後、12時から会議に出席したのです。人との縁がいかに大切かということを、私は教訓として心に刻んだものです。

 田中さんのこうした姿勢は至るところで見受けられました。たとえば、初めて会う相手から名刺を受け取ろうとしない。理由は、

「名刺をもらうと顔を覚えないから」

 相手が通産大臣や総理大臣の名刺を欲しがるので交換はしますが、若いころからの習慣だそうです。省内を歩くときは、よく若い官僚をつかまえて、

「よお〇〇君、奥さんの病気はどうだ」

 などと話しかけていました。相手の顔と名前どころか、一度聞いた家庭の事情まで覚えているのです。声をかけられた者が喜ばないはずありません。

 権力を笠に着て官僚に接する政治家が多い中、田中さんはまさに対極の人でした。