役所特有の長い文書について、
「1枚にまとめられないのは、説明する者自身が理解できてないからだ」
と指摘されたのも言い得て妙です。
通産大臣時代の著書『日本列島改造論』は、田中さんが具体的に口述したものを、私たち通産官僚や新聞記者が分担して書いたものです。ほかの省庁に資料の提供を頼むとき、「イヤな顔されるだろうな」と予想したんです。ところがどの省庁も、「角さんが書くなら」と全面協力だった。あれほど官僚の人心掌握に長(た)けた政治家は、ほかにいません。
力があるときに難しいことを
また田中さんは通産大臣時代、幹部の評価でも、独特の基準を持っていました。仕事ができるかどうか、それだけで判断しないのです。専用車の運転手などから情報を集め、酒を飲んだときなどに迷惑をかけないか、部下との関係はどうなのかといった部分を重要視していました。単なる有能な人物ではなく、人の上に立つには、慕われる資質が必要だと考えていたのでしょう。
1年後、田中さんは首相になりました。私は首相秘書官として、引き続き仕えるように命じられました。首相時代に最も困難だった仕事は、日中国交正常化交渉です。就任から2カ月後、
「オレは内閣を作ったばかりで『今太閤』とまで言われ、政治力は強力だ。一番力があるときこそ、一番難しい問題に挑戦するんだ」
そう覚悟を語った田中さんと共に、北京へ赴きました。うまくまとまる保証はありませんでした。しかし、「難しい交渉をやるなら、革命第一世代の毛沢東、周恩来が健在なうちだ。二代目三代目になると、国民が言うことを聞かなくなる」と話していました。
田中さんは、国益のためには身を捨てることを厭(いと)わない、真の政治家でした。2011年来の震災と原発の問題を見ても、幅広い人脈を持ち、地域の実情に詳しい田中さんなら、地元へ権限をうつし、人、資金を集中投下して、もっと早く的確な対策を打っていただろうにと思えてなりません。
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このコラムは、いまなお輝き続ける「時代の顔」に迫った『昭和100年の100人 リーダー篇』に掲載されています。



