少年たちがマルトを「マトラ」と呼ぶのは、台北の地下鉄建設に関わっていたフランスのマトラ社に発音が似ているように思えたからだ。今では市内を縦横に走る台北地下鉄(MRT)だが、運行が始まったのは本作完成後の1996年3月のこと。いかに本作が台北の変化とその気配を捉えていたかがよくわかる。
都市の活気と人間の空虚と
レッドフィッシュの父親は、そんな時代に台湾の経済成長を最前線で支えていたはずだ。しかし、そんな父が突然ぽっきりと折れて愛人とともに失踪した。父の教え通り、稼ぐことを第一に考えてきたレッドフィッシュにとっては、自分の家族とこれまで信じてきた価値観の危機だ。そのとき彼は、この状況を招いた張本人への復讐を計画するしかない。
ホンコンやルンルン、トゥースペイストにも課題がある。時代と都市がゆらぎ、従来の価値観に頼ることができず、新しい価値観にも対応できない(そもそも新しい価値観とは何かがはっきりしない)なか、彼らは嘘をつき、金のために誰かの言いなりになって、少しずつ孤独になっていくのだ。都市の活気とは裏腹に、その人間像は空虚で寂しい。
マルトと元恋人のマーカスは、そんな彼らと台湾社会を外部から見つめる。制作から約30年が経過した現代の観客にとっては最も近い視点を有する役どころだ。同時に、学生時代からアメリカで10年以上生活してきたエドワード・ヤン自身の視線を請け負った役柄とも言える。その心理はやや見えにくいが、それは2人がひたすらに外部の存在だからかもしれない。
エドワード・ヤンは登場人物が思惑とともに交錯するプロットを巧みに織り上げつつ、複数の言語とジャンルを衝突させながら映画を前進させる。中国語・英語・閩南(びんなん)語・広東語・フランス語が飛び交い、ラブストーリーとコメディ、ギャングものが行き来する――スクリーンに映る空間が変われば言葉とトーンも変化すること、その混在自体が都市と人間の関係をきわめて映画的に表現しているのだ。
コミュニケーションの不具合は、時として笑いと切なさを呼び、時には凄惨な事件につながる。言葉が通じるにもかかわらず意思疎通が致命的に破綻することもあるし、言葉が通じていなくとも互いの気持ちがわかることもある。すれ違いが生むドライな笑いの陰には、目を覆いたくなるほどの暴力がひそんでいる。
ある者は笑い、ある者は泣く。ある者は死ぬ。そんな都市の不条理をユーモアと呼んでいいのだとしたら、これは言うまでもなくコメディ映画だ。おなじみのロングショットや長回しで空間と人物を溶け合わせ、編集によって人々の境遇を対比する語り口が、都市のノイズがついて回る音響設計が、この映画に“おかしみ”を与える。その“おかしみ”とは、悲しさや恐ろしさのことでもある。

