文面から察するに、三島さんはまさか自衛隊がすぐ警察を呼び、事件の処理をすべて任せてしまうとは予想しなかったようである。ふんだんに武器を持つ自衛隊は、おそらく自力で彼のシナリオを妨害しようと図る。三島さんらを惨殺しておいて、隊外には真相を隠して発表する。それが三島さんの最も恐れた「蹉跌」であった、と私は思う。

 あれほど自衛隊を信じようとした人が、最後の瞬間に警察に引き渡され、止(とど)めを刺されたかと思うと、哀れでならない。

 静けさを感じると私が言うのは、彼の死に方に『豊饒の海』の第4巻『天人五衰』の最後の場面が重なるからである。門跡(もんぜき)の老尼(ろうに)が「そんなお方は、もともとあらしやらなかつたのと違ひますか」と言い、それまでの物語を全否定する。庭は蝉鳴のみして、しんとしている。あの月修寺のモデルになった奈良・帯解(おびとけ)の円照寺へ、彼は4度も取材に行った――寂寞(じゃくまく)の静けさを書くために。

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 わずか3年半の付き合いだったが、三島さんがそれを「バンコック以来の格別の御友情」と感じてくれたのは光栄である。ここで死なねばならぬというときに立派に古式に則って死んだ日本人だと、私は彼を記憶している。

◆このコラムは、いまなお輝き続ける「時代の顔」に迫った『昭和100年の100人 文化人篇』に掲載されています。

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