日本刀を振り回して自衛官を総監室から追い出した。バルコニーから声張り上げて演説した。自衛隊員も怒号で応えた。取材ヘリの轟音がする。大声を発して腹の中の空気を抜いてから刀を突き立てた。血がほとばしった。そういうアクションを考えると、三島さんはハデに死を演出したように見える。しかし事実は逆で、彼は無事に、静かに切腹して介錯(かいしゃく)されることのみを願っていたのではないか。
本人の死後にニューヨークのドナルド・キーン氏に届いた手紙の中で、三島さんは絶筆『豊饒の海』4巻の翻訳のことを「ぜひぜひ、よろしくお願ひします」と書いた。翻訳さえ出れば、世界のどこかに必ず自分を正しく評価してくれる人がいる。三島さんは、左翼偏向した当時の日本文壇の尺度を信じなかった。
死ぬ当日、楯の会の一人に託して私に渡した手紙の中にも「(同封の)檄(げき)は何卒、何卒、ノーカットで御発表いただきたく存じます」と反復・懇請があった。
三島さんの文学と行動については、多種多様な解釈がある。だが本人が最も強く望んだのは二つ。一つは誰かが自作を正当に認めてくれること、もう一つは自衛隊員へのメッセージが、広く日本人に誤りない形で聞かれることだった、と私は見ている。
手紙の残り大半は、事が計画通り進まなかった場合に備える予防線だと言っていい。「小生の意図のみ報道関係に伝はつたら、大変なことになります」「万一、思ひもかけぬ事前の蹉跌により……その節は、この手紙、檄、写真を御返却いただき、一切をお忘れいただくことを、虫の好(よ)いお願ひ乍(なが)らお願ひ申し上げます」等々。



