小学5年生で覚悟「俺の家は、焼き討ちに遭うんだな」

 当時の記憶で私が覚えていることと言えば、平和条約を結ぶに際して、吉田が凄まじい緊張感の中にあったということです。吉田は、ソ連や中国を外した単独講和の道を模索しました。当然、全面講和を支持する側からは猛烈な批判を受けた。

 その時に、吉田が私に言ったのは、小村寿太郎と松岡洋右の話でした。小村は日露戦争後に、決裂の危機も乗り越えて、ポーツマス条約を結んでいます。ただ賠償金は獲得できなかった。不満を抱いた国民から小村は石を投げつけられ、自宅に火をつけられるなどの憂き目に遭いました。一方の松岡は国際連盟で「満州国」が認められず、席を蹴って飛び出し、日本は脱退した。この行動を当時の国民は拍手をもって迎え、町では提灯行列をやるほどの大騒ぎになりました。

 その話を聞いて、私はまだ小学5年生でしたが、「ああ、俺の家は、下手すると焼き討ちに遭うんだな」と子供ながらに覚悟したのを覚えています。ただ、吉田は話の最後にこう語ったんです。

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「歴史を振り返れば正しかったのは小村だ。その時の世論やマスコミの評価ではなく、政治家にとっては歴史の評価の方が大切なのだよ」

 講和会議を目前に控えていた頃は、願をかけたのか珍しく葉巻をやめてしまい、うちのお袋が「あの葉巻好きが、らしくないことやっているわね」と、なかば心配しながら笑っていました。調印を終え、ホテルに帰った吉田が私の父から葉巻を渡され、えらく嬉しそうに吸ったそうです。緊張していたんでしょう。

吉田茂 ©文藝春秋

「長いことママを取り上げて悪かった」

 そんな祖父の気持ちも知らずに、当時の私は「おじいちゃまがママを取るからいつもママがいない」とごねていたそうです(笑)。祖母が早くに亡くなったので、母が秘書代わりに同行することが多かった。それを聞いた祖父は申し訳なさそうに、

「長いことママを取り上げて悪かった。講和会議が終わったら返すから、動物園や寄席に行こう」

 と話してくれました。条約の調印を終えたら政治家を辞めるつもりだったんでしょう。結局、次の鳩山一郎が病に倒れて、続投を余儀なくされますが、今の時代にはいない稀有な政治家だったと思いますね。

 このコラムは、いまなお輝き続ける「時代の顔」に迫った『昭和100年の100人 リーダー篇』に掲載されています。

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