「19時ごろ、羽田を飛び立った大阪伊丹空港行きの日本航空123便ジャンボ機が、消息を絶っているらしいよ」「えっ!」

 524人の乗客乗員のうち520人が死亡…1985年8月12日、世界中を震撼させた「日本航空123便墜落事故」。この未曾有の事態は、人々にどんな衝撃を与えたのか? 事故直後、現場へ走った報道カメラマンの1人、橋本昇氏の新刊『追想の現場』(鉄人社/高木瑞穂編)より一部抜粋してお届けする。(全4回の1回目/続きを読む)

激突したジャンボ機の片方の主翼。付近では乗客乗員のものと思われる肉片が散乱していたという。 ©橋本昇

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ジャンボ機が消息を絶っているらしい

 2月の高い青空を、旅客機が飛行機雲を描きながら南へ飛んでいく。遠ざかっていく旅客機を目で追っていくと、あの「暑かった夏の出来事」が蘇ってきた。あれから40年が経った。

 1985年8月12日。帰省先の九州から東京郊外の自宅に戻り、澱んだ熱気を逃がそうと窓を開けた。暗い外の街灯に浮かぶ桜の木に集まった油蝉の鳴声が、夜の熱気に負けじと、鳴き暮らしていた。

 突然、電話が鳴った。編集者のKさんからだった。

「19時ごろ、羽田を飛び立った大阪伊丹空港行きの日本航空123便ジャンボ機が、消息を絶っているらしいよ」

「えっ!」

 電話から聞こえてくる、Kさんののんびりとした声とは裏腹に、話の内容は驚くべきものだった。

 私は半信半疑のまま、すぐにテレビをつけた。映し出されたのは、羽田空港ロビーに立つ、テレビレポーターの姿だった。間をおかず、画面の上にニューステロップが点灯した。

〈行方不明の日航機は長野県境の山中に墜落した模様〉