死亡者数520名…今から40年前、大勢の人々が命を失った「日本航空123便墜落事故」。その衝撃は大きく、被害者の遺族たちの人生にも影響を与えた。同事故のその後を、報道カメラマンとして活躍する橋本昇氏の新刊『追想の現場』(鉄人社/高木瑞穂編)より一部抜粋してお届けする。(全4回の4回目/最初から読む)
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事故犠牲者の遺品
再び現場。そこでジャンボ機だとわかるものは翼だけだった。ばらばらになった機体から飛び散った機体部品、客席シート、遺体、部分遺体、眼鏡、時計、財布、靴、ハンドバッグ──乗客が身に着けていて燃えずに残った品が散乱していた。
群馬県警は、まず優先して、遺体と部分遺体をビニール袋に集めていた。それから乗客の残した遺品を丁寧に拾い集めていた。と同時に事故原因を探求するための機体の内部構造を支える外壁など、重要パーツも丁寧に集められていった。
犠牲者遺族にとって事故原因の証拠部品も大切だが、犠牲者が身に着けていた物はかけがえのないものだろう。その数々の遺品は、いったん群馬県警へ保管され、すぐに羽田にある日航施設へと運びこまれた。
そこで遺族が確認出来たものは返品された。
私は事故後約1か月たったころ、羽田の遺品管理所へいった。入り口には受付が出され、訪れる遺族の対応にあたっていた。
そこは小さな体育館のような施設で、ビニール袋に入れられた遺品が、見やすく順番に置かれていた。
一つの遺品を見ると、品名が書かれたシールが貼られていた。遺族の一人は、そのなかから手帳を見つけ、丁寧に一枚一枚めくっていた。
その日は約20人の遺族関係者が訪れていた。かがんだり、ひかりにかざして、繰り返し確認していた。
遺族どうしが確認しあう、囁くような声が聞こえていた。
