秀持は工藤平助(1734〜1801年。仙台藩医・経世家)の著作『赤蝦夷風説考』(ロシア貿易の開始と蝦夷地開拓を説いた書物)を添えた意見書を意次に提出することになります。平助は蝦夷地を幕府の手で調査すること、金銀を採掘しそれを交易に当てること、ロシアと蝦夷地で交易することを説きます。それは当時、鎖国していた日本で、ゆるやかな開国を提言するものでした。
当時、ロシアは千島の島々を占拠して極東に触手を伸ばしていましたが、徳川幕府の対応は後手に回っていました(また諸国の商人が蝦夷地に赴き、国禁の抜荷=密貿易も横行している有様でした)。秀持は蝦夷地通と言われる宗次郎にも蝦夷地についての知見の提供を求めています。これに対し宗次郎が提出したのが全17カ条にもわたる上申書でした。
なぜ宗次郎は蝦夷地の交易状況に詳しかったのか?
そこには松前城下町の状況、蝦夷地との交易品について(米・酒・木綿針・煙草など)、蝦夷地の産物(鮭・鯨・金・銀・銅・鉄・硫黄ほか)、松前藩の年間の運上(雑税)収入(約1万両)、松前藩が本土から入ってくる者(特に儒者・僧侶・山伏・医師など読み書きができる者)を厳しく制限していることなどが記されていました。
この上申書を秀持が受け取ったのは天明4年(1784)4月のことです。天明4年というと、天明の大飢饉の最中であり、意次の子・田沼意知(宮沢氷魚)が江戸城内で刺され死去した年でありました。さて宗次郎は蝦夷地に行ったことはありませんでしたが、なぜこれほど蝦夷について詳しかったのでしょう。
その情報源となったのが、前に紹介した戯作者の平秩東作と言われています。東作は松前藩の江戸屋敷にも出入りしていましたし、蝦夷地にも出かけていました(1783年)。宗次郎は東作の蝦夷地行きに際して、松前の絵図を貸しています(この絵図は元松前藩の勘定奉行・湊源左衛門が所持していたものとの見解もあります)。
蝦夷地に約半年滞在した東作は、見聞録『東遊記』をまとめることになるのです。東作の現地調査と湊源左衛門の情報を基にして、宗次郎は上申書をまとめたのでした。