鎖国中の日本にロシアの脅威が迫り、幕府は調査団を派遣

宗次郎の上申書と工藤平助『赤蝦夷風説考』は意次に衝撃を与えたと思われます。蝦夷地がロシアの脅威に晒され、しかもそこでは密貿易が蔓延っている。それと共にそこには豊富な鉱物資源が眠っているかもしれない。蝦夷地を開拓していけば国は富み、窮民を救えることにつながるであろうが、そのためには蝦夷地の実態をできるだけ正確に把握しなければならない。上申書を見た意次の脳裡に以上のようなさまざまなことが去来したはずです。

そうして蝦夷地調査団の派遣(調査団の主な目的は金銀鉱山とロシア貿易の調査)が構想され、実行に移されることになります。隊員は公儀普請役の山口鉄五郎・庵原弥六・佐藤玄六郎・皆川沖右衛門・青島俊蔵らでした。調査団は天明5年(1785)2月、松前に出発、4月下旬には松前を出立し、二手(国後島に行く団員と樺太に行く団員)に分かれて調査が始められます。調査報告書は天明6年(1786)に提出されますが、その柱となっていたのは蝦夷地の「農耕地化」(新田開発)でした。

田沼意次の失脚とともに、蝦夷地開発の夢は消えた

田沼政治が続いていたら、蝦夷地の開発が実行されていったでしょうが、天明6年(1786)8月、意次は老中職を罷免されます。それと共に、勘定奉行・松本秀持も罷免されるのです。蝦夷地調査は完結しないまま打ち切られてしまいます。

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最も悲惨な運命をたどることになったのが、土山宗次郎です。勘定組頭だった宗次郎は先ず富士見御宝蔵番頭に移されます(1786年)。そして、なんと翌年(1787年)12月5日には斬首されてしまうのです。

宗次郎の罪状は複数あり、例えば病死した娘のことを幕府に届けないで他家の娘を養女としたこと、勤務中の不正(幕府お買上米に関連する500両横領)などが挙げられていますが、遊女の誰袖を身請けしたことも「身持放埒」とされ非難されています。