宗次郎や南畝・東作はよく一緒に遊んでいるのですが、南畝の日記『三春行楽記』(『大田南畝全集 第8巻』岩波書店、1986年)には、正月3日、宗次郎邸で「男女交錯、相酌無算(男女が酔って乱交し、酒をどんどん飲ませ合った)」と乱痴気騒ぎの酒宴を催していることが記されているのです。

その2日後、南畝は宗次郎とその愛人「流霞夫人」と傀儡(くぐつ)(人形遣いの見世物)を見物したり「中戸楼」で遊んでいます(流霞夫人は日下部七十郎の娘とは別人と考えられています)。ちなみに『三春行楽記』には遊女「誰袖」や「書肆耕書堂(しょしこうしょどう)」(蔦屋重三郎が営む本屋)も登場するのです。

作家・大田南畝の日記には誰袖と宗次郎と蔦重の名前が

それは同日記の2月9日の項目。この日も南畝は狂歌師の朱楽菅江や宗次郎らと共に「北里」に遊んでいますが、花を観た後に大文字屋の妓楼に登っています。大文字屋で宗次郎らは遊女を呼ぶのですが、その1人が「誰袖」でした。同日記には誰袖を「土山氏の狎妓(こうぎ)」とあります。誰袖は宗次郎の馴染みの女・可愛がっている芸妓という意味です。

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菅江や南畝もそれぞれ遊女を呼び楽しんだとのこと。大文字屋で遊んだ後に南畝と菅江が訪れたのが「書肆耕書堂」でした。「書肆耕書堂に宴す」とありますから、重三郎らと酒盛りをしたのでしょう。宴会後、耕書堂が呼んだ「肩輿」(駕籠)で南畝は家に帰りました。南畝が重三郎とどのような会話をしたのかまでは書かれていませんが、もしかしたら誰袖の話も出たかもしれません。

宗次郎は蝦夷地に詳しく、上役の伊豆守に上申書を書く

さてこれまで書いてきたことだけ見たら、宗次郎は飲んで遊んでばかりの人間のように思われますが、そうではなく、彼は幕閣切っての蝦夷地(えぞち)(現在の北海道)通でもありました。そして彼の上役は勘定奉行の松本伊豆守秀持。秀持は当初、百俵五人扶持の御家人でしたが、財政に明るく、勘定組頭・勘定吟味役そしてついには勘定奉行にまで昇進した人物です。老中・田沼意次(渡辺謙)の腹心でもありました。