そうして一日中スマホから刺激を浴びていると、スマホを直接さわっていなくても、その感性が対面にも持ち越されてしまう。スマホやSNSが避けられないという前提に立つと、この辺りにこそ取り組むべき問題があるように思われるのです。

SNS上の会話は中身がなくてもいい

FOMOや寂しさに自分の主導権を握られたとき、私たちはどんなコミュニケーションをしているでしょうか。恐らく、大体において定型的なコミュニケーションをしているはずです。ごく短いテキスト、スタンプ、仲間内のイディオム、ネットスラング、流行語、あるいは、決まった動画や画像などを用いるような。

ここで念頭に置いているのは、互いの意図を繊細にすり合わせる話し合いや合意形成、あるいは、互いの態度を変えるような対話などではなく、むしろつながること自体が大切であるようなコミュニケーションです。

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会話自体が目的であるような会話で交わされるのは、中身のあるやりとりではなく、やりとりを続けてつながること自体を目的としています。互いに接続し合うこと自体を志向するやりとりのあり方は、「つながりの社会性」と呼ばれることがあります。

「モヤモヤ」から目を背けてしまっている

コミュニケーションがこういう形に変わっていることに、もちろんタークルは気づいています。彼女の観察は、学生たちが、当意即妙に画像や写真、短いテキストなどを瞬発的にシェアしながらコミュニケーションを重ねている様子にも向けられているからです。彼女は、その当意即妙なやりとりに素直に感心しながら、警戒心を示してもいます。

こうしたやりとりは、内容が難しくなったり、理解が及ばなかったりしたとき、突っ込んだことを聞いたり、込み入ったことを考えたりして「かみ砕きにくい考えを言葉にしようと努力する」ことを止め、気楽な記号のやりとりで済ませる役割を担ってしまっているからです。

このコミュニケーション様式は、「モヤモヤ」「消化しきれなさ」「難しさ」から目を背けることを助けてしまっているのではないかとタークルは心配しています。