神、技術、虚構
柄谷行人自身は来たるべきDを、(原始の遊動的な)仏教やキリスト教などの「普遍宗教」の原理に見出そうとしている。しかし、まさに宗教こそ欲望と不安の回収装置でもある。柄谷は来たるべきDは「交換」ではないと主張しているが、国家が「服従」を誓う代わりに「保護」を与える「交換」であるとすれば、なぜ宗教が「信仰」を誓う代わりに「救済」を与える「交換」とは言えないのか。不安や欲望や神といった形而上/精神上の問題はマルクス主義的、あるいは柄谷行人においてはどのように考えればよいのか。
マルクスを批判的に継承しようとした後のマルクス主義者たち(グラムシ、ルカーチ、アルチュセールら)は、イデオロギーや文化といった上部構造が持つ相対的な自律性や、下部構造への能動的な働きかけの重要性を強調した。柄谷もこの問題を踏まえて、「生産様式」という唯物論的な基盤に依拠して社会思想を形成したマルクスの限界を乗り越えるために、霊的で神的な「力」を含む「交換様式」へと理論をアップデートした。しかしここにひとつの疑問が残る。すなわち柄谷行人は生産様式的な方法に精神的な問題を組み込もうとしたがゆえに、霊性と信仰という人間精神の究極の形態を扱ってきた宗教を交換様式から除外し、「来たるべきD」というブラックボックスへと送り込むこむことになってしまったのではないか。
これと同じ問題は成田悠輔の技術思想にも疑問を投げかける。近年、アメリカのテック右派たちもまたAIとブロックチェーンを組み合わせた未来社会を予見しているが、興味深いことにピーター・ティールはキリスト教を深く信仰しJ.D.ヴァンス副大統領はカトリックに改宗し、一部のカリフォルニアのテック系起業家たちも宗教に回帰している動きがある(現在、P.ティールを中心にテック業界内でキリスト教コミュニティを育成するために設立された非営利団体「ACTS 17 Collective:テクノロジーと社会においてキリストを認める会」が活動している)。あるいはトランプ大統領の支持基盤であるプロテスタント福音派はキリスト教の終末論を信奉しながら勢力を拡大している。
こうした動向を見ると、唯物的・技術的に規定され調整される人間社会を描くビジョンにおいても、どこかで精神的な問題が浮上し、その問題を先送りする未来予言的なものを求めたり、すべてを一元的な意味に回収する神的な超越性を求めてしまうという傾向は人間に不可避であるように思える。
AIの圧倒的な進歩によって、これまで人類が想定してきた「人権」「主体」「人格」などの概念は再考を求められることは間違いない。もちろん、それに基礎づけられた政治・経済システムも大胆に変容していくだろう。すべてがデータ化され、アルゴリズムによって実体的に処理される世界では、社会を統合し、人々に意味を与えてきた「虚構」(神、国家、貨幣、イデオロギーなど)の役割はどうなるのか。それらは完全に消え去ってしまうのか。それとも、バックエンドでデータ駆動アルゴリズムが社会を動かす一方で、フロントエンドでは新たな形の虚構や神話が人間の情動を惹きつけ、社会を動かすエネルギーとして機能し続け、その欲望こそがアルゴリズムを加速させるのだろうか。そして、この新たな技術―生産様式をコントロールし、社会全体の方向性を決定しようとする権力が出現する可能性はないのか。あるいはAIが最適化の名の下に新たな規範的スコアを創出する可能性はないだろうか。AIがどのように進化するにせよ、その「最適化」は誰にとっての最適化なのか、という問いは常に残る。
凡庸な結論になるが、私たちが社会を構想するときには、イデオロギーと物理的な条件の相互作用から考える必要がある。精神や思想のような実体のない虚構を無に帰す技術論でもなく、主体や人格を自明視して技術を盲目に批判するのでもなく、虚構と実体の調停、超越論的な眼差しと経験的な条件の融合、上部構造と下部構造の交流をこそ、思考しなければならないのではないか。しかしそれゆえにこそ、現在の技術的な条件で構想可能なラディカルな社会像を描いた本書を、単なる技術ユートピア論としてではなく、重要な思想のひとつとして読む必要があるだろう。
