“家”に縛られないお墓があってもいい

 私は先祖に感謝する気持ちまで否定するつもりはありません。私のなかにも、祖父や祖母をはじめとして自分の命につながる人々に「ありがとう」と思う気持ちがあります。また、自分の先祖はどんな人だったのだろうと関心を持ったこともありました。でも、お墓というかたちだけが、先祖を大切にすることにはならないと考えているのです。

 私はお墓参りをしませんが、部屋には父と母の写真を飾っています。そして毎日、その写真に向かって話しかけています。年に1回、お墓参りをしてお花を供えることだけが供養の仕方ではないと思う。お墓に行きたい人は行けばいいでしょうが、それは強制されるべきものではありません。死んだ人とは、人それぞれのつき合い方があるはずです。お墓でなくても、その人を偲ぶものが指輪ひとつ、着物の切れ端ひとつあればいい。何だったら物に頼らなくてもいい。

 私は三回忌や七回忌のような法事も嫌いです。あれは、亡くなった人を忘れないようにするための儀式でしょう。本当に大切な人のことは忘れないはずですから、そもそも必要ありません。

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田嶋陽子さん ©文藝春秋

 今はお墓が必ずしも馴染みのある場所にあるとはかぎらない。自分たちが暮らしている街から遠く離れたところにあるケースもあります。だからといって、近所に新しいお墓を建てようとすれば、それだけでたくさんのお金がかかります。死んだ後も誰かがお墓の世話をしなければなりません。はたして、そこまでしてお墓にこだわらなければならないのか、私は疑問を感じます。

 たとえお墓をつくるにしても、家単位である必要はないでしょう。個人個人のお墓があってもいいし、家族でなくても親しい人と一緒に入るお墓があってもいい。石のお墓をやめて、遺骨を入れたペンダントをつくってもいい。家の思想から離れたら、お墓をもっと自由に発想できるはずです。

 日本人がお墓にこだわるのは、個として自立していないからかもしれません。家の呪縛から解放され、それぞれが個として成熟すれば、死後の対処についても個を中心とした考え方に変わってくるでしょう。葬儀もお墓ももっと自由に。死んだ後のことも、私たちは主体的に選べるようになればいいと思っています。

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田嶋 陽子

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