蔦重と組んで成功、その蜜月関係を壊した絵師の名前
その翌年(1782)の秋、歌麿は上野の忍が岡で宴席を設けます。その宴席には戯作者や浮世絵師が招かれたのですが、四方赤良(よものあから)(大田南畝(なんぽ)の別名、演・桐谷健太)・恋川春町・朋誠堂喜三二・北尾重政・鳥居清長などが参会しました。この宴席は歌麿が主催したのですが、歌麿は名目上の主催者。その裏に真の主催者がいたとされます。そしてその真の主催者こそ蔦重だったと言われます。
歌麿は数年前に浮世絵界入りしたばかり。そんな歌麿にこのような宴席を設定するのは困難だというのです。では蔦重はなぜこのような宴席を設けたのでしょう。おそらく蔦重は、歌麿と特に戯作者を会わせて親交させようとしたと思われます。そこには戯作者の戯作(小説)と歌麿の絵を組み合わせて出版せんとする蔦重の思惑が絡んでいたはずです。宴の参会者と歌麿は後に合作することになりますが、そうしたことを考えれば宴は功を奏したと言えるでしょう。蔦重のもとで歌麿は錦絵や狂歌絵本(『画本虫撰(えほんむしえらみ)』1788年刊、『潮干(しおひ)のつと』1789年刊)を手がけることになります。
蔦屋と専属に近い関係にあった歌麿ですが、蔦屋以外の版元からも作品を発表しています。寛政6年(1794)頃からその傾向は強まるとされますが、その大きな要因が東洲斎写楽という浮世絵師の登場にあったと言われています。
蔦重の死後、歌麿は投獄され、54歳で亡くなった
その後、有名な「ポッピンを吹く娘」など、寛政2~3年(1790~91)から蔦重と組んで描き始めた「婦女人相十品」「婦人相学十躰」といった「美人大首絵」で人気を博し、彼が描いた女性の着物や髪型が市中で流行するなど、今でいうインフルエンサーになった歌麿。
蔦重と蜜月にあった歌麿でしたが、寛政6年(もしくは寛政5年)頃から関係が冷え込んだと言われているのです。蔦重が東洲斎写楽に入れ込んだことにより、歌麿が気分を害して蔦屋から離れていったという説。他の版元から勧誘された歌麿が蔦屋を離れていき、それが要因で蔦重は写楽に重点を移していったという説があります。どちらが正しいかは判然としませんが、前者とするならば、かつて歌麿が西村屋から離れていったのと同じ現象が起きたことになるでしょう。