芸術家というものは一般的に自尊心が強いものです。歌麿の心中に「なぜ自分ではなく、清長なのか」という不満がくすぶっていたとしても不思議ではありません。歌麿が次に組むことになるのが、蔦屋重三郎です。蔦重と歌麿がどのようにして出会ったのかに関しては諸説あります。吉原生まれの蔦重は年少の頃に両親が離婚し、喜多川氏の養子となります。歌麿の姓も蔦重の養家と同じ喜多川氏。このことから歌麿は蔦重の養家の人間、もしくは養家の親戚ではないかとの推測もあるのです。
いまだに謎である歌麿と蔦重の本当の関係
天明4年(1784)、蔦重は『いたみ諸白(もろはく)』(吉原大門口脇の酒屋の息子・大門際成の追善狂歌集。法要の配布物として制作されたか)を刊行しますが、その制作には歌麿も関与していました。このことから歌麿は吉原の人物とも関係を持っていたこと、更には歌麿自身が吉原の人間ではなかったかという推測も存在します。
蔦重と歌麿の出会いや関係性の強化に影響を及ぼしたと考えられるのが、先に登場した北尾重政です。戯作者・朋誠堂喜三二(ほうせいどうきさんじ)(演・尾美としのり)と共に蔦重を支えた「両輪」とも称されるのが重政ですが、彼は蔦屋版の黄表紙に絵を描いていました。前述したように重政にとって歌麿は「弟子同前」の人間。重政が蔦重と歌麿の出会いの橋渡しをしたとしても違和感はそれほどないでしょう。
蔦重と歌麿、両者の初めての仕事は天明元年(1781)、蔦重刊行の黄表紙『身貌大通神略縁起(みなりだいつうじんりゃくえんぎ)』(以下『身貌縁起』と略記)でした。この黄表紙に歌麿は挿絵を描くのです。同書の作者は歌麿と同じ鳥山石燕門下で戯作者の志水燕十(しみずえんじゅう)でした。『身貌縁起』は歌麿が初めて「歌麿」号を使用した作品です(それまでは豊章)。改号は新たな環境で精進しようという歌麿の気分の表れかもしれません。