歌麿を生み出した鳥山石燕と北尾重政という2人の師匠

石燕の門からは歌麿だけでなく戯作者・浮世絵師の恋川春町(こいかわはるまち)(演・岡山天音)もおりました。恋川春町は黄表紙(きびょうし)(喜劇小説)『鸚鵡返文武二道(おうむがえしぶんぶのふたみち)』の作者として有名ですが、この作品で松平定信の文武奨励政策を風刺したとして、春町は幕府から出頭を命じられます。歌麿は石燕の「弟子」だったわけですが、歌麿にはもう1人の師匠がいたとされます。それが浮世絵師の北尾重政(1739〜1820)でした。

『古画備考』(江戸時代後期の画家・朝岡興禎による画人伝)の重政の項目には「石燕の弟子、喜多川歌麿ハ、弟子同前(同然)也」とあります。石燕は浮世絵ではなく、絵本や絵入俳諧本が活動の中心だったこともあり、浮世絵師・歌麿により大きな影響を与えたのは、浮世絵師の北尾重政だったのではとも言われているのです。重政は江戸小伝馬町の書肆(しょし)・須原屋(すわらや)三郎兵衛の長男として生まれますが、独学で絵を学び、浮世絵師として美人画・風景画を残しました。

歌麿が浮世絵師としてデビューしたのは安永4年(1775)のことであり、役者絵を手がけます。当時は「北川豊章」の名でした。その後、歌麿は安永7年(1778)には黄表紙の挿絵を描きます。その後も歌麿は黄表紙の挿絵を描いていくことになるのですが、その中には西村屋与八(演・西村まさ彦)が版元になっているものがありました。西村屋は日本橋に店を構える有力書肆。有力版元からの仕事に歌麿は欣喜雀躍(きんきじゃくやく)したかもしれませんが、西村屋が目をかけていたのは歌麿だけではありません。

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アーティストとして強烈なプライドを持っていたか

歌麿の1つ年上の鳥居清長(1752〜1815)という絵師も西村屋から多くの仕事を任されていました。例えば安永9年(1780)、西村屋は清長に10種の黄表紙の挿絵を担当させています。一方、同年に歌麿が描いた西村屋版の黄表紙は4種でした。清長は歌麿と比べて現代における一般の知名度は低いですが、浮世絵界の名門・鳥居派に属し役者絵や美人画をよく描いた浮世絵師です。西村屋は清長に担当させた挿絵数からも分かるように、歌麿よりも清長の方により目を掛けていました。