もっとも、佐山の生きざまを追い続けていた原田さんはこう続けた。

「あのとき、佐山はプロレスを否定し、虎の仮面を脱ぎ捨てた。ただ長い年月を経て、再びタイガーマスクとしてプロレス界に復帰したとき、僕は嬉しかった。タイガーマスクとしての自分を受け入れた、つまり人間が自分の過去を否定する必要がないということに、やっと気づいてくれたんだと思ってね」

 原田さんはこのとき、タイガーマスクこと佐山聡の姿と、自分自身の漫画家人生を重ね合わせていた。

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佐山聡と梶原一騎

『列伝』や『男の星座』といった作品で一躍名を上げたものの、大物原作者だった梶原一騎が1987年に死去した後、原田さんはなかなかヒット作を出せないでいた。高度な似顔絵の画力がかえって災いし、「似顔絵じゃないと注目されない」「自分で作ったオリジナルのキャラクターでは反響が出ない」という大きなジレンマを抱えることになったのである。

「当時は悩みました。梶原先生に指名されたのはラッキーだったけれども、最初に最高の仕事をしちゃったのかなと。でも、僕は佐山のような突出した才能がなかった分、割と素直に自分の現実を受け入れられたと思います。一発屋と言われたっていい、読者からプロレス劇画だけを求められているのだったら、とことんそれをやればいいやってね」

 その言葉を聞いたとき、私は「タイガーマスク」の生みの親である梶原一騎の人生を想起していた。「理想の自分」と「現実の自分」の不一致に思い悩む――それはまさに若き日の「劇画王」の姿だったからである。

「漫画なんて」「プロレスなんて」と卑下していた仕事の価値を認め…

 改造社、新生社で文芸編集者をつとめた高森龍夫を父に持つ梶原は、教護院暮らしを経験した「札付きのワル」でありながらも、純文学の世界を志した文学青年だった。念願かなって10代で小説家デビューを果たすも、すでに純文学は斜陽の時代に入っており、出版社から依頼される仕事は漫画の原作ばかり。

2022年頃の原田氏

 当時の梶原は、食うために、生きるために、やむなく本心を押し殺して仕事を引き受けていた。だが、それらの作品が大きな評価を受けたことで、梶原はやがて考えを改め、劇画原作者としての生き方を受け入れ、誇りを持つようになる。

 思い通りにならない人生に、どう折り合いをつけ、自分自身を納得させていくか。この点において、梶原一騎、タイガーマスク、そして原田さんは最終的に同じ結論に到達している。

「理想の自己像」とは、必ずしも自分自身が思い描いたものになるわけではなく、むしろ他者によって作られるという人生の要諦を、三者はそれぞれの形で証明してみせた。「漫画なんて」「プロレスなんて」と卑下していた仕事のすばらしい価値を認め、受け入れたのである。