災難に次ぐ災難
白亜の新居での生活を始めた翌年から、映画に出たり、写真集の被写体になったり、東京オリンピックを取材したりと、30代後半の三島は、精力的に活躍していたように見えます。しかし、実を言えば「鏡子の家」の酷評による精神的ダメージは大きかった。
次なる長編「宴のあと」は、元外務大臣・有田八郎にプライバシー侵害で訴えられます。日本で初のこのプライバシー裁判は、有田の没後和解に至るまで6年にも及びました。「鉢の木会」の仲間だった吉田健一が、有田の意を受けて仲介しようとしますが、不調に終わり、吉田との関係も悪化、「鉢の木会」脱会につながります。深沢七郎「風流夢譚」(ふうりゅうむたん、天皇一家が斬首される小説)の「中央公論」への掲載を推薦したのが三島だったとの誤解を受けて右翼から脅迫されたことも。
文学座が分裂し岸田今日子らが脱退、三島は再建に奮闘しますが、今度は三島自身が文学座を脱退することに――ひたすら災難が続き、日本社会と三島文学との断裂は、ますます大きくなっていきます。
〈私も二、三年すれば四十歳で、そろそろ生涯の計画を立てるべきときが来た〉と三島が考えたのは37歳の時。その40歳を迎えた年の6月に、「豊饒の海」の第1巻「春の雪」に着手します。西洋の大長編に匹敵するような世界文学を目指した三島は、4巻からなる物語の骨子として、輪廻転生と唯識(ゆいしき)を真剣に学びました。
輪廻は戦時中の空襲下で既に彼の中に芽生えていた死生観です。法相宗(ほっそうしゅう)の唯識では、個人的自我の奥に阿頼耶識(あらやしき)という「無我の流れ」を想定します。この識は常住ではなく、たえず生滅し、しかも間断がありません。現実世界とは、この流れの一滴一滴が顕現したもの。阿頼耶識が主体となり、水がたえず相続転起するように輪廻転生を引き起こす、と考えるのです。
「春の雪」の冒頭には日露戦争の戦死者を弔う写真が出てきますが、それは明治まで遡って日本の近代史を、そのように生じては滅ぶ一瞬一瞬の時の流れとしてとらえようとする「豊饒の海」の枠組みの提示であり、やがて訪れる自死を弔う象徴だったとも解釈できます。

