「ノーベル賞なぞには興味がありません」
昭和元禄とも呼ばれる軽躁状態の中で、三島はひとり輪廻の観念をつきつめ、昭和とそれ以前の時代を、自己と社会を、どう結びつけるかという課題に向き合います。そこに、“文化概念としての天皇”が浮かび上がってくるのです。簡単に言い換えれば、それは死/滅びを、その都度その都度受け入れるからこそ連綿と続いてきた文化の総体を意味します。昭和41年には「人間天皇」に矢を放つ短編「英霊の声」を発表し、翌年に武士道を説く『葉隠(はがくれ)入門』を、昭和44年には政治論『文化防衛論』を刊行しました。
昭和43年10月、川端康成がノーベル文学賞を受賞します。三島も、この年を含めて計5回、同賞の候補に挙がっていたのですが、前年には「ノーベル賞なぞには興味がありません」と発言していました。天皇の人間宣言を糾弾することは、戦後社会の土台をひっくり返すことを意味しますが、そのような言動が受賞を阻んだ一要因であった可能性は否めません。そうと知りながら、彼は筋を通したのです。
三島は小説世界と現実世界との共振に向けて、大胆な一歩を踏み出します。現実を超える方法論と新たなヴィジョンを提示する小説を書くことと、言葉の介在しない世界で死を決意することは、切り離せぬものになってゆきました。
「楯の会」を結成、自決するまで
昭和41年秋頃から、祖国防衛隊を組織することを考え始めます。左翼学生運動に対抗する民族派「論争ジャーナル」の一派や、昭和41年に早稲田大学学生連盟の呼びかけで結成された日本学生同盟(日学同)のメンバーからスカウトした若者が、三島と共に自衛隊に最初の体験入隊をしたのは、「奔馬(豊饒の海・第2巻)」執筆の時期と重なっています。
その後、祖国防衛隊の構想を支持していた財界人との決裂もあり、三島はポケットマネーで昭和43年10月、「楯の会」を結成。翌44年10月21日の国際反戦デーには新宿で新左翼による大規模なデモが予測され、自衛隊が治安出動した場合は楯の会も参入するつもりだったのが、デモは機動隊によりあっけなく鎮圧されてしまう。死を賭して闘う機会は訪れませんでした。
自らの命を絶つことを具体的に決意したのと「天人五衰(てんにんごすい、豊饒の海・第4巻)」の結末を決めたのは同時期、昭和45年3~4月頃と推察されます。小説の結末は、救済のヴィジョンを描く当初の構想とは異なり、バッドエンドに変わりました。それこそが、三島の眼に映る戦後世界の正確な病理診断だったのです。
11月25日朝、最後の原稿を家政婦に託すと、楯の会の4人――森田必勝(まさかつ)、小賀正義(まさよし)、小川正洋(まさひろ)、古賀浩靖(ひろやす)――と自衛隊市ヶ谷駐屯地に向かう。11時過ぎに益田兼利(ました・かねとし)東部方面総監を人質にとって総監室にたてこもり、自衛官を集めるよう要求しました。バルコニーから憲法改正のための蹶起を促す演説を約10分行った。その後、総監室で割腹。
介錯する予定だった森田は果たせず、古賀が実行。三島を追った森田の介錯も、やはり古賀が務めました。撒布された檄文にはこうありました。〈生命尊重のみで、魂は死んでもよいのか〉。その死から半世紀を経た今なお、三島は私たちにこう問い続けているのです。
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