出れば何かを残せる男、それが柴崎だ
10代のころからその才能を高く評価され、U-17ワールドカップ出場時には10番を背負っている。Jリーグからの争奪戦も当然激化することが予想されていたが、高校2年のとき、鹿島アントラーズと仮契約を交わす。
プロ入り後は強豪クラブで先発の座を手にするのは容易ではなかった。それでも出場機会を得るとそのプレーは強く印象に残った。
2011年10月9日Jリーグヤマザキナビスコカップ準決勝対名古屋グランパス戦。大迫勇也のゴールで先制するも同点に追いつかれた延長後半107分に柴崎が決勝ゴールを決める。この試合ボランチでプレーした柴崎は、ピッチの中央でバランスをとる仕事に注力し、あまりゴール前へ上がることがなかった。確か2度か3度だったように記憶している。しかし、そのうちの1度で得点を決めたのだ。その嗅覚に驚かされた。
「不安障害」に陥ったと報道されたことも
柴崎がこの大会で最優秀選手賞を獲得したのは、決勝戦で2ゴールを決める2012年だったが、若きゲームメーカーは非凡な才能を示し続けていたのだ。
鹿島でも試合経験を重ねていた柴崎だったが、日の丸とは縁遠かった。2014年のロンドン五輪代表チームにも選ばれてはいない。それでも柴崎自身の海外志向は強かった。しかし、なかなか納得のいくオファーは届かなかった。そして2016年、クラブワールドカップ決勝戦でレアルマドリード相手に2ゴールとブレイク。2017年スペイン1部リーグのクラブへ移籍という報道が流れ、海を渡ったものの、結局、2部のテネリフェに移籍。当初は慣れない環境での苦闘が始まる。「不安障害」に陥ったと現地で報道されるほどだった。それを克服し、シーズン終盤にはチームを牽引した。その活躍が評価され、2017年夏には1部のヘタフェへ移籍している。初ゴールはバルセロナ戦だった。
内田篤人を変えたドイツでの経験
海外のクラブで味わう厳しい生存競争は孤独な戦いだ。それは選手を大きく変える。
「若いころは、サッカーに対する熱さは自分のなかに隠していればいいやと思うところがあった。でもドイツへ来たら、自分の感情を引きずり出された。そうじゃないとやっていけない。『人のうしろでもいいや』と思っていたけれど、前に出ないと生き残れないから。それは海外へ行ってみないとわからないことだった」
今季、ドイツから帰国し、鹿島アントラーズに復帰した内田篤人がそんなふうに語っていた。柴崎も同じなのかもしれない。自己主張しなければ、何も感じていないのと同じ。そんな欧州文化のなかで、生き残るために、ひとつ殻を破ったのだろう。
多くを語らずとも、プレーに支障のなかった鹿島時代とは違い、スペインでは黙したままでは、埋もれてしまう。熾烈なレギュラー争いのなかでは、自分のミスを認めない選手もいる。主張しなければ、負け犬のままで終わってしまうのだから。
自分の居場所を作るためには、たとえ言葉の壁があったとしても、コミュニケーションは必要不可欠だ。そこから逃げれば、サッカーもうまくはいかない。
それはメディアも同じだと柴崎はスペインでの孤独な戦いのなかで感じたに違いない。もちろん、彼が身に着けた自信がメディアへの発言にも繋がっているだろう。