永山は獄中で精力的に執筆活動を続けた
永山は獄中で精力的に執筆活動を続け、1983年には『木橋』という小説で新日本文学賞を受賞した。そして1990年、死刑が確定した年に日本文藝家協会に入会を申し込む。しかし協会は入会を拒否し、これに抗議して中上健次や筒井康隆が協会を脱退する事態になった。
筒井は「自分だって人を殺すかもしれないという認識や想像力のない者が小説を書いてはいけない」とコメントし、これが報道されて「お前は殺人を認めるのか」というたくさんの批判が出た。
筒井は、直後に朝日新聞に寄稿した短いエッセイ『おれは逃げた』(『悪と異端者』中央公論社に所収)で自分の考えを詳しく説明している。筒井は以前から人を殺し、警察に追われる夢を見続けていたという。汗をかいて目覚め、しかし夢でよかったとホッとする。
「しかし実際に人を殺し、死刑宣告された者の身の重さは、夢などから類推できる筈がないのである。その重さを人並み以上のすぐれた文章で表現できる人物が入会を求めてきている。三顧の礼をもって迎えるべきではないか」
「拒否の決定があったということを知ったときは身の置き所の悪さを強く感じた。作家の集まりを『虞犯者(佐々木注:犯罪を犯す恐れのある者)の集団』と認識して反体制的な梁山泊のごときロマンを求めていたことは間違いだったのだ」
「戦争に関係した人だってたくさん会員にいる筈だろう。その人たちに『罪あり』の現象はないのだろうか」
筒井がこのエッセイを書いてからすでに30年近くが経っており、社会における倫理の感覚はかなり変化している。しかし社会の倫理が変化したからと言って、理解できない凶悪犯罪に走る者がいなくなるわけではない。
凶悪犯罪の謎を問い続ける意味
相模原46人殺傷事件の被告も、そういう理解できない者のひとりだ。私はこういうモンスター的な犯罪について社会に要因を求めすぎるのは無理があると考えているが、しかし彼らのような凶悪犯罪者が決して消滅していかない以上、その謎を問い続けることは意味があると考えている。そのために犯罪者の自己表現には価値があるし、フィクションとして犯罪を描く映画やドラマ、漫画、小説にも大きな価値があると考えている。
モンスター的な犯罪は理解しにくい。しかし「何を考えているのかまったくわからない」という認識も含めて、認識しようとすることは大切なのだ。実際にそこに存在している闇を、覆い隠すだけでは決して認識は深まらない。