不正輸出の濡れ衣で社長ら3人が逮捕されるも、初公判直前に起訴取り消し、その後の国賠訴訟では捜査員からの「捏造」発言も飛び出した「大川原化工機冤罪事件」。なぜ警視庁公安部によるストーリーありきの捜査は止まらなかったのだろうか?
ここでは、同事件を取材した毎日新聞記者・遠藤浩二氏の著書『追跡 公安捜査』(毎日新聞出版)より一部を抜粋して紹介する。(全3回の2回目/3回目に続く)
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「なぜ、大川原だったんでしょうか」
東海道新幹線、JR横浜線、横浜市営地下鉄が乗り入れ、高層ホテルやオフィスビルが林立する新横浜駅から2駅。JR横浜線の鴨居駅で電車を降りると、同じ横浜市内でも雰囲気はがらりと変わる。
線路に沿うように流れる鶴見川に架かる橋を渡ってしばらく歩くと、背の低い町工場が建ち並ぶ一角に4階建ての社屋が見えてきた。
2024年1月、私は大川原化工機の本社に向かっていた。私はこの頃、すでに、警視庁公安部が立件に不利な証拠を隠蔽した疑惑をつかんでいた。噴霧乾燥器の温度実験をした際、見立て通りに温度が上がらなかった測定箇所のデータを除外し、経産省に報告した疑いだ。
しかし、この話を記事にするには、噴霧乾燥器の構造を詳しく知る必要がある。会社側に相談し、紹介されたのが、入社30年を超えるベテラン技術者の武村さん(仮名)だった。
武村さんは、カタログや図面を広げながら、サイクロン、製品回収容器、排風口といった装置の各部位の特徴や寸法について説明してくれた。そうして、一通り話し終えた武村さんが、ふと口にした。
「なぜ、大川原だったんでしょうか」
私はこの質問に虚を突かれたような思いがした。
当時、私は捜査当局の内部資料を入手し、捜査の問題点を指摘する記事を出すことに力を注いでいた。目が向いていたのは公安部側を追及することだが、その対極にいる、大川原化工機側の逮捕された社長ら3人のことも忘れたことはない。
一方で、その陰にいた、大川原化工機の社員たちに今ひとつ考えが及んでいなかった。彼らもまた、「当事者」だった。そんな武村さんら社員の立場からは、今回の公安部の捜査はどのように映ったか。
「動くな」「電話するな」いきなり大勢の捜査員が会社に押しかけ…
18年10月3日、午前9時の朝礼前に、いきなり大勢の捜査員が会社に押しかけてきた。「動くな」「電話するな」と大声で怒鳴り、パソコンや書類を根こそぎ持っていった。その日から間もなく、社員らは何度も任意の事情聴取を受けた。警察の任意の捜査に協力的に対応していたが、20年3月には社長ら3人が逮捕、起訴された。