「棺にすがって十年分の涙が出てしまったというぐらい泣いた」
「あんぱん」は、嵩のモデルである『アンパンマン』の作者・やなせたかし(1919~2013年)の生涯と中園ミホによる脚色(フィクション)が入り交じる構成になっているが、1939年、やなせが官立旧制東京高等工芸学校図案科(現・千葉大学工学部総合工学科デザインコース)に在籍していたときに、伯父の柳瀬寛が急死したのは事実だ。
卒業制作のポスターを徹夜で仕上げてから、やなせは汽車に飛び乗って故郷の高知県に帰った。しかし、伯父は既に死んでいたという。自伝『人生なんて夢だけど』(フレーベル館)によると、ドラマとは違って、伯父は布団の上に寝ていたのではなく、既に棺の中に横たわっていたそうだ。
そして、育ての父の死に目に会えず、弟の千尋から「兄貴、遅いよ」となじられたやなせは、「『お父さんごめんなさい!』ぼくは棺にすがって泣きました。十年分の涙がいっぺんに出てしまったというぐらい泣きました」と書いている(『人生なんて夢だけど』)。
ドラマと違って、やなせたかしは「お父さん」と呼んでいた
『アンパンマンの遺書』(岩波現代文庫)では、やなせはこう綴っている。
父というのは本当は伯父で、籍は入っていなかったから、義父でもなかった。しかしぼくはお父さんと呼んでいたし、たしかに父だった。
実子でもないぼくを望むままに東京に遊学させ、海のものとも山のものとも知れない芸術の道に進むことを許してくれたではないか。ぼくはどんなに感謝しても感謝しきれない。
そのとき、やなせは東京田辺製薬(現在の田辺三菱製薬)の宣伝部に就職が決まっていた。目指していたとおり図案・デザインの仕事に就いたわけだが、製薬会社を選んだのは、医師である伯父に恩返しをしたかったからだという。
愚かなことに、製薬会社に勤めれば薬を安く父にまわせるかもしれない、少しは役にたつだろう、と考えたのである。
「田辺製薬か、しようもない会社に入ったな」と父は(あえて父と呼ぶ)言った。
やなせたかし『アンパンマンの遺書』(岩波現代文庫)