高知県の紳士録で見る柳瀬寛の人柄

内科・小児科医だったという柳瀬寛は、実際にはどんな人物だったのだろうか? 地元・高知の紳士録には、こう書かれている。

柳瀬寛氏
長岡郡医師会長として時めく長岡村の柳瀬寛医師は香美郡御所村の出身である。大正元年京都医専(現在の京都府立医科大学)を卒業し高知市小高坂の佐々野病院に一年半勤務、大正三年現在の所に開業した。氏の厳父は永らく高知県属を奉職した人。柳瀬医師について何よりも特筆すべきは、兄弟愛の麗しい事である。即ち自分には子供はいないが仁術済生の一方に余力を捧げて実弟或は亡弟の遺児らを教育してまた自楽を求めぬことである。

 即ち実弟正周氏(二七)を東京高千穂高商(現在の高千穂大学)に通学させて現在日本勧業銀行(現在のみずほ銀行)に就職せしめ、さらに亡弟の遺児嵩(一七)君を城東中学に通学せしめ(現在四年)ているのである。まことに医師社会内外を通じ稀に見る奇篤美談として人々を感心させている。宣(むべ)なる哉(かな)昭和十三年一月七日郡医師会長に満場一致を以て推された。趣味はただ静かなる、そして費用のいらぬ俳句のみ、朴城と号してスソノ誌の同人である。
『近代土佐人』(高知尚文社)。1939年。
国立国会図書館デジタルコレクション

三男四女の長兄として弟や甥を養育、多趣味で宴会好きだった

亡くなる前年には地域の医師会長になっていたという。柳瀬家は300年以上続く庄屋で、寛は三男四女の長兄だった。しかし、寛の父が財産を食い潰してしまったということで、年齢の離れた末の弟や、次男の遺児であるやなせらを養育していたのも、家長としての責任感からだったのだろう。

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寛は、やなせの言葉によれば「本当に良い人」で、「本をよく読む人」。高知の後免町の柳瀬医院には『中央公論』や『文藝春秋』『婦人之友』などの雑誌がそろっていたという。やなせの実父の清は新聞記者だったが、その兄である寛も読書家で、俳句をたしなむ文化的素養のある人物だったようだ。やなせは中学生時代からよく絵を描き、雑誌の懸賞に応募して入選することもあった。伯父の与えた環境が、やなせを国民的漫画家への道を歩ませたとも言える。