寛は多趣味で、オートバイにサイドカーをつけて田舎道をぶっ飛ばすので、目立っていたという。柳瀬医院の隣は酒屋で、医院には寛の友人である歯医者や教師が毎晩のように集まり、宴会を開いていた(『人生なんて夢だけど』)。あるいは、そんな生き方が寛の寿命を縮めたのかもしれない。
やなせに「医院を継がないか」と言ってきたことも
ぼくは弟とちがって伯父の養子にはならなかったが、「お父さん」「お母さん」と呼んでいた。奥座敷と書生部屋の関係は変らなかったが、別にわけへだてなく育てられた。
しかしいくらか遠慮がちであったのは事実である。中学三年生の時に大阪、京都、東京への修学旅行があるが、ぼくは「行きたくない」と言った。本当は行きたくてたまらなかったが、修学旅行の費用を出してもらうのが心ぐるしかった。成績優秀前途有望ならいいが、その逆ではひるんでしまう。
やなせたかし『アンパンマンの遺書』(岩波現代文庫)
正式な養子になっていた実弟の千尋は奥座敷で伯父夫婦と暮らし、やなせは玄関脇の書生部屋を与えられ、あくまで甥っ子扱い。さびしい思いもしたというが、高校生のときには伯父から「医院を継がないか」と言われた。しかし、数学が大の苦手だったやなせがその提案を断ると、伯父はあっさり引き下がり、工芸学校に進ませてくれた。
ドラマでは省かれた実母の家への引っ越し
「あんぱん」では柳瀬家の事情が史実に沿って描かれているが、まるっと省かれているのは寛の末の弟・正周(まさちか)の存在だ。やなせは9歳上の叔父である正周と後免町の柳瀬医院でひとつ部屋に暮らし、兄弟同然の仲だった。工芸学校の合格発表を見に行くときも付き添ってくれたのは、ドラマのように寛ではなく、東京の銀行で働いていた正周だったという。
また、東京の世田谷区ではやなせの実母・登喜子が再婚して暮らしていて、その家は偶然、正周の住居からすぐのところだった。結局、やなせは実母の家に引越し、そこから学校に通うようになったという。このあたりもドラマとは異なる。