かつて寝台特急はプライバシーもへったくれもない空間だった

 乗客の減少、収益の悪化、車両の老朽化だ。

 乗客減の理由は時流としか言いようがない。新幹線と航空機の普及により、東京から午前中に移動できる地域が増えた。前日に到着して泊まる傾向も増えた。1990年頃から東横イン、サンルート、ワシントンホテルなどがチェーン展開しており、前日に夜の新幹線や最終便で目的地に到着する傾向になった。寝台特急よりホテルの方がよく眠れるから、寝台特急は敬遠された。

 設備面にも問題があった。かつてのB寝台車は三段式で通路とカーテンで仕切っただけ。トイレも共用だ。これは戦前からの伝統的なスタイルだったけれども、プライバシーはないし、特に女性にとって安心できる場所ではなかった。1976年頃からB寝台が2段式になり、1990年頃にはB寝台にも1人用個室が連結されたけれども、今度は定員が減って収益が悪化してしまった。

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はやぶさの2段式B寝台。外との仕切りはカーテンだけだ(筆者撮影)

 車両の老朽化も課題となった。1975年頃に配備された新しめの寝台車は、2000年代に入ってリフォームするか、新造して取り替える必要が出てきた。しかし乗客たちが宿泊に求めるサービスレベルが高まり、単に同じ車両を作っても集客に結びつかない。

 そんな状況下で九州方面の寝台特急が苦戦しても出雲と瀬戸は好調だった。新幹線と競合せず、東京と結ぶ航空便も少ないからだ。出雲空港と羽田空港の直行便は1979年に開設され、高松空港は1989年にやっと開港したという状況である。寝台特急のビジネス客が減っていく中で、出雲と四国はレジャー需要が手堅かったのだ。そうして、数あるブルートレインのうち出雲と瀬戸だけは投資価値があると判断された。

東京駅で発車を待つサンライズ瀬戸・サンライズ出雲(筆者撮影)

 運行ダイヤを工夫すれば、姫路駅や岡山駅で乗り継ぎ、広島や博多方面への早朝アクセスに使える。下りを姫路、上りを大阪に停めることで、阪神方面と東京を結ぶビジネス需要も拾え、国内航空運賃が自由化されても勝負できる列車になる――そう判断したわけだ。つまり、終点が出雲市と高松だからこそ、寝台特急が生き残った。

 そこで、出雲と瀬戸向けに新しい寝台特急車両「285系電車」が開発され、1998年から走り始めたのが「サンライズ瀬戸」と「サンライズ出雲」だ。