「後ろめたさ」と新たな成熟

上野 『抱擁家族』の三輪俊介と時子の息子と娘たちは、その後、団塊世代のカップルになっていきました。さらにその次の団塊ジュニア世代がもう中高年になりつつあります。不機嫌な娘たちが母になったら、結局、自己実現の場を見いだすことができず、過干渉の毒親になりました。そして男たちはというと「父」というポジションから逃げましたね。

 女性学は母と娘の関係を問題化しましたが、母と娘が取っ組み合いしているときに父が知らん顔を決めこむ。それを信田さよ子さんは「石像化」と呼びました。「父の不在」がもっとも罪深いと。江藤が提示した、戦後日本男性の成熟の課題を、今、誰がどうやって引き受けているのでしょうか。

與那覇 ひとつの手がかりは、加藤さんの『敗戦後論』に倣えば「よごれの自覚」ではないでしょうか。性別や結婚・子供の有無にかかわらず、私たちは「自分だけはよごれてない、完全無欠な存在だ」と誇る人を見たら、むしろ未熟さを感じますよね。

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 吉本隆明の用語で補いますと、対面した相手に抱く対幻想として、「後ろめたさ」のようなものを感じられるか。他人だから知らねぇよ、と石像になるのではなく、たまたま相手より自分が恵まれていると思えたとき、「なんか、悪いなぁ」とよごれを感じて、手を差し伸べられるか。そうした共感の基盤の豊かさが、新たな成熟の指標になるのかなと。

吉本隆明

上野 その「後ろめたさ」は、敗戦とつながりますか?

與那覇 いえ、むしろ歴史を教えるのをやめて、病気でデイケアに通う中でそう思いました(『危機のいま古典をよむ』に「小僧の神様」論として収録)。「後ろめたさ」を身につけるレッスンを、国民大の「敗戦の記憶」という共同幻想に委ねすぎたのは、むしろ戦後日本の限界ではなかったでしょうか。戦争で死んだ人たちに「後ろめたく思え、共感せよ」とうたう感情教育は強力だけど、耐用年数がある。

 歴史なんか知らないよ、という世代には通用せず、違う方法が要ります。『敗戦後論』でも「ノン・モラル」として仄めかした問いを旋回させて、後に加藤さんは「仮に歴史がぜんぶ消えても、それでいいよ」という地平に立ったとするのが、拙著の解釈です。