「お前が死んでも泣く者はいない。おめでとう」と言われた
やなせが入営前に受けた徴兵検査の結果は「第一乙種合格」。体格や健康状態によって甲・乙・丙・丁・戌の5種に分けられ、甲種と乙種(第1~第3)が現兵役に適するとされたが、やなせは第一乙種と判定された。甲種ではなく乙種だったのは、近眼のためである。
しかし、これを悔しがるわけでもないのが、やなせらしい。そもそも徴兵検査は居住地の東京でも受けられたが、本籍地の高知で受けたのも、田舎には体格の良い若者が多いため、見劣りすることを期待したためだった。しかし、近眼以外悪いところがなく、結果的に現役兵として入営することになる。
顔が変わるまで殴られたり、お互いにビンタしあうよう強制された
しかも、本来なら本籍地の部隊に入るところ、縁もゆかりもない小倉に行くよう命じられた。その理由について、『アンパンマンの遺書』(岩波現代文庫)では、検査官がやなせの身上調査票を見て次のように語ったと説明されている。
「貴様は父も母もなく、弟は養子に出て、戸籍ではたったひとりか。国家のために一身を捧げても泣く者はいないな。心おきなく忠誠を尽くせ。おめでとう」
ここからは「ビンタの嵐吹き荒れる恐怖の内務班」の生活が始まった。ビンタの合図は、「一歩下がって足を開け! 眼鏡をはずせ! 奥歯をかみしめろ!」。足を開くのは、よろけて転ばないため、眼鏡をはずすのは壊れないようにするため、奥歯をかみしめるのは舌をかまないためだ。「ボクサーのように顔が変型してしまう」「一人駄目だと、一班全員なぐられる。革製の上靴でなぐられたり、むきあってたがいになぐりあう往復ビンタというのをやらされる」など、悲惨なものだった(『アンパンマンの遺書』)。
やなせの後ろ向きの性格が、軍隊では自身の身を助ける
やなせが入営することになったとき、周囲からは「おそらく1カ月ともたず脱走するだろう。軍隊の訓練に耐えられるはずがない」と言われていた。おまけに、やなせが軍隊で下士官になったとき、自分の身上調査票のカードを調べてみると、備考欄には「軟弱にして気迫に欠ける。男性的気性の養成を要す」と書かれていたという。