しかし、結果的に見ると、やなせのこの後ろ向きの性格が自身の身を助けることになったのではないだろうか。
やなせが入営した「野戦重砲」は馬の手入れが毎日あり、それ自体は大変な重労働だったものの、演習では歩兵のように前線に走らずに済むので楽だった。とはいえ、訓練で使っていた要塞攻撃用の重砲は旧式で、接近戦の訓練も木の銃を持って藁人形に突撃するという前時代的なもので、「実戦では役に立つはずがない」「この戦力では勝てるわけない」と思い、やなせは死を覚悟するようになったという。
意外にも軍隊には適応でき、幹部候補生の試験も受ける
その一方、やなせはあるときから全ての訓練をまじめにやるようになった。
「兵隊としてやっていくには要領、つまりコツがある。それは、言われたことだけをきっちりやり、自分の頭で考えないことだ。考えるのをやめて上に従うことで、初年兵は一人前の兵隊になっていく。軍隊とはそうやって成立しているものだと気づき、ここでやっていくためには受け入れるしかないと割り切ることにしたのだ」(『やなせたかしの生涯』)
この諦めの境地により、軍隊生活はスムーズになった。身体もまた、入浴のとき裸体になると「いい身体になったのう」と褒められるほど筋骨隆々になっていった。軍での世活に慣れてきた頃には幹部候補生の試験を受けるが、やなせは「乙幹」となった。
幹部候補生は甲幹と乙幹に分かれ、甲幹は士官(少尉→中尉→大尉)に、乙幹は下士官(伍長→軍曹→曹長)に進む。やなせは成績では甲幹に合格だったのだが、試験前夜、病気の馬を隔離する厩舎の不寝番をする際にうっかり居眠りしたところを週番の士官に見られ、不合格となったのだ。しかし、この結果はむしろ幸運だった。なぜなら、士官になった同期は満州や中国の前線に送られ、多くの戦死者が出ており、生き残っても戦後シベリアに抑留された者もいたためだ。