よくアスリートがインタビューで、「応援して下さる皆様の期待に応えられるように頑張ります」とか「国民の皆様の期待に応えられて嬉しいです」といった発言をされるのを見ますが、もし彼らが多くの人たちからの「欲望」に応えなければと思っているのだとしたら、それはどこか気の毒な感じもします。

しかし、実際にこのような発言が少なくないのは、それがムラ的世間の求めているものに適(かな)うからなのでしょう。

誰かのためではなく自分のために生きる

さて、「自分を愛せない」という問題を抱えている方たちが徐々に変化し、主体としての意識が育ってくると、「自分の思っていることを大事にして良かったんですね」「自分のために生きて良いんですね」といった発言が、喜びの表情で語られるようになります。

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これを裏返して見れば、いかに彼らが長いこと「自分の思っていることなんて、大事にするに値しない」「自分は親や周囲の期待に沿うように生きなければならない」などと思い込まされていたのかが分かります。

このように思い込まされてきた人は、それまで生きているようで生きていない状態にあったと言えるでしょう。近年過熱ぎみになっている幼児教育や習い事、そして受験準備や親による過干渉などによって、子どもたちは自分の主体性が育つ暇いとまが与えられていない状況に置かれています。

それらの押し付けられたものに対して「やめたい」「やりたくない」「行きたくない」といった形で表明される主張も、親の圧力によって容易にその芽を摘み取られてしまいます。そうして主体が育っていない状態のまま大人になってしまうのです。

親から生まれたが親の所有物ではない

そういう成育史を持つ人たちが社会人になってから、あるところでちょっとしたことにつまずいて、前に進めなくなってしまうケースも珍しくありません。それは、うつ病や適応障害などの形で顕在化することが多いのですが、この状態に対して抗うつ剤などによる薬物療法をいくら行なっても本当の改善は見込めません。