したがって、この神話の語り部は、おのずと成功者に限られる。そして、この神話が成立する背景には、往々にして成功者の「後付けの物語」が潜んでいることを忘れてはならない。成功者はしばしば、自身の成功体験をドラマティックに仕立て上げる傾向がある。
「逆境に陥ったが、自分を信じて誰よりも努力を重ねたことが、大きな成功につながった」というように。
しかし、それが本当に努力だけの結果なのか、それとも運や偶然、社会的要因などの「見えない要素」が作用していたのかを、冷静に検証することは少ない。むしろ、そのような複雑な要因を認識することは、成功体験の美しい物語を壊してしまうリスクがあるため、避けられる傾向にある。
「努力不足だ」と自分を責めてしまう
このようにして、「自動販売機型神話」は、そのわかりやすさと成功者が語ることによる問答無用の説得力によって、次第に社会全体に共有され、理想的な成功モデルとして広がる。書籍やSNSなどを通じて、私たちは1年中そのストーリーを浴びるように吸収するのだ。
それによって多くの人に健全な努力を促していくというポジティブな側面があるというのは先ほど述べた通りだが、その一方で、自らの努力が報われないとき、必要以上に自分を責めることになる。「自動販売機から商品が出てこないのは、自分がその商品に見合うだけの硬貨を入れてないのではないか」と考えてしまうのだ。
本来、「自動販売機型神話」は数多くある努力神話のひとつでしかない。しかし、この神話は想像以上に私たちの内面へ浸透しているため、ここから逃れるのが難しい現実がある。
努力しても報酬が得られないこともある
「自動販売機型神話」の副作用は、ほかにもある。それは、努力して報酬を手に入れることに強迫観念を持ってしまうことだ。つまり、いったん報酬を得られなくなったとき、そんな自分が許せなくなって、自分のことを無価値だと思ってしまう。
努力と報酬が比例するのだから、努力をする限り、その報酬は止まることはないはずだ。そうであるなら、報酬が少ない自分はどういう存在なのか。「自動販売機型神話」が強い成長ドライバーになっている人は、その停滞状態を理屈で説明できなくなり、いままで順調に見えたようなキャリアから突然外れるなど、極端な意思決定をしてしまうことがある。過度な「自動販売機型神話」の信奉は、人を成長に導く半面、人を蝕みもする。