殺意

 久保田さんは洗面所にこもっていたが、しばらくすると出てきたものの、詩織を無視するように冷淡な態度だったという。詩織が刃物を持ち出しても無言でそれを取り上げいなしてしまう、いつもと違う久保田さんに、詩織はどうして私が納得するような態度でもっと強く情愛を示してくれないのかという気持ちでいっぱいになった。

 そして、たとえ刃物を突き付けてでも、久保田さんの口から納得のいく愛の言葉を、そして久保田さんの全身から愛のカタチをみせてもらいたいとの思いに駈られ、ベッドの上に残されていたパン切り包丁を掴むと、久保田さんの左鎖骨あたりを狙って突き出した。

写真はイメージ ©getty

 咄嗟に避けた久保田さんだったが、避けきれなかった。ばかりか、角度的に鎖骨付近ではなく、みぞおちのあたりから上方に刺さってしまい、結果として肝臓を傷つけていた。そして、久保田さんは2時間後に死亡したのだ。

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 詩織はそのときの様子を検察官に対しこう述べた。

「すべるようにして包丁の切っ先がまっすぐ腹部に吸い込まれていった」

 一審ではこれが、「被害者に刺さる手ごたえを求めて刺し続けた」と解釈され、そこに殺意があったと認定されたのだった。

 しかし高裁ではこの判断は相当でない、とした。また、詩織のこの一般人とは相容れない心情にも言及した。詩織の愛の確かめ方というのは非常に唯我的独善的であり、情愛の表現の仕方としては奇異かつ危険であるとしながらも、少なくとも殺意の認定に関しては、一般の客観的倫理や平均人の感覚ではなく、詩織個人の心情によるべきだと判断した。

 さらに、その根拠として、一見頭おかしいんとちゃうかと思われるようなこの詩織の包丁を持ち出す行為を「媚態(男にこびるなまめかしい女の態度)」であるとし、久保田さんがそれをある程度受容していたとも言及した。いわばこれは、ふたりの間ではある意味、「プレイ」だった可能性を指摘したのだ。

 それらを踏まえ、原審は詩織と久保田さんの独特の情念の関係を考慮していないとし、未必の殺意を認定した原審を破棄したうえで、判決を言い渡した。