信じ切れなかった女
久保田さんは、裁判所が言う通り、詩織を心から愛していたし、大切に思っていた。これは裁判所が勝手に妄想したのではなく、実は根拠があったのだ。
詩織に刺された後、久保田さんは自分で着替えをし、上着を羽織って「医者に行ってくる」と言って徒歩で出かけていた。しかし、思った以上に出血があったことで、路上にうずくまってしまったわけだが、原審では119番した警察官に対し、「家の中にいる者に刺された」と話したことから、詩織が刺したと断定されていた。
しかし、高裁はその話は信用できないとして肯認しなかった。実はそのとき複数の通行人が久保田さんを介抱したり、様子をうかがうなどしており、その際、久保田さんがそのような言葉を発した事実はないと証言していたのだ。
裁判所はこのときの久保田さんの心情について、「むしろ被告人の本件刺殺行為を庇った感さえうかがわれる」とした。
久保田さんはなぜ、救急車も呼ばず、狼狽えることもなく、自ら家を出たのか。もしも家で救急車など呼んだら、誰に刺されたのか一目瞭然となってしまう。それだけは避けたかったのではないのか。それはひとえに、詩織を庇いたかったからではないのか。それほどまでに、久保田さんは詩織を大切に思っていた。しかし詩織は、それを信じ切ることができなかった。
久保田さんが死亡した後も、裁判が始まっても、実は詩織に反省や後悔といった態度は見られなかったという。自己の行動を美化合理化することに終始していることは、高裁でも誠に遺憾、とされている。その上で裁判所は、情状面において、久保田さんの母親の思いを尊重した。
久保田さんの母親は、事件後に久保田さんが詩織を庇う行動に出ていたことを知り、息子の遺志を汲んで詩織に対して処罰を求めないと申し出たのである。母は大切な息子を殺害されても、それでも息子を信じた。
詩織にその母の気持ちが通じたかどうかはわからない。
久保田さんは詩織にとって「神」にも等しい存在だったという。その「神」をその手で葬り去った詩織にとって、今、愛とはどんなものなのだろうか。