一体いつからあんな穴が開いていたというのか。
あの穴の存在にはじめて気付いた時、私は驚き、うろたえた。通常あんなところに穴が開いていた場合、人が取るべき行動はただ一つ、「繕う」である。しかし破れたわけではなく意図的に開けられているようなのだ。何なのか、あの野球選手のユニフォームの脇の下に開いている穴は。
現在多くの選手のユニフォームに施されている脇の穴は、主に「肩の可動域を広げる」「通気性を良くする」という2つの理由で開けられているという。私が脇の穴の存在を意識したのは2000年代初頭だったと思うが、遡れば1989年、西武との優勝をかけたダブルヘッダーで4連発を放った近鉄・ブライアントがガッツポーズを決めた時、その脇には穴が開いていた。脇に穴を開け始めたのは野茂英雄だという人もいるが、野茂が1990年に近鉄に入団した時には既にユニフォームに穴は開いていたのである。逆に、大きく振りかぶる際に脇の穴からアンダーシャツや脇が見えることを嫌った野茂は、入団2年目には穴なしのユニフォームを希望し、トルネード投法に耐えうるよう伸縮性があって丈夫な赤色の布で穴部分を加工したという(参考:『プロ野球ユニフォーム図鑑1934~2013』ベースボール・マガジン社/2013)。
ではなぜ当時の近鉄は脇に穴を開けたのか。それは「ユニフォームがピチピチだったから」ではないかと推測する。1980年代のユニフォームはどの球団も体の線に沿ったピッタリしたフォルムであった。1970年代にいち早くメッシュ地ユニフォームを採用した近鉄だったが、現在の素材よりは伸縮性が弱く、肩を動かしにくかったのではないだろうか。
2000年、カープの脇開け元年
ところで先日、野球殿堂博物館に展示されている衣笠祥雄や山本浩二のニット地ユニフォームをしげしげと眺めていたところ、脇の下のみ三角形のメッシュ加工が施されているのに気が付いた。目立たぬうちに通気性対策の方は1970年代からなされていたのである。
この流れをまとめると、通気性を良くするため脇部分のみメッシュにした→ユニフォーム全体がメッシュになった→ピチピチなので脇に穴を開けた→脇の穴で可動域と通気性の問題が両方解決できてめでたしめでたし、となり、現在のゆったりしたユニフォームにも脇の穴がそのまま継承されたのではないかと考える。
しかし公認野球規則には「各プレーヤーは、その袖がボロボロになったり、切れたり、裂けたりしたユニフォームおよびアンダーシャツを着てはならない」(3.03(e))という規定がある。脇の穴はこれに抵触しないのだろうか。恐らく「この脇は裂けているのではなく、もとから穴を開けた加工なんですよ」という意思表示が必要なのだと思われる。そのためには一人ではなく複数人が一斉に脇穴ユニフォームを導入する必要がある。カープを見てみると、1999年までは誰の脇にも穴は開いていなかったが、2000年になると佐々岡真司、澤崎俊和、横山竜士、町田康嗣郎、前田智徳……と脇の穴が大発生した。この年がカープの脇開け元年であったのだ。