同日の朝日新聞でも「B29頻(しき)りに中小都市を狙ふ 二百五十機分散来襲 姫路、高松、徳島、高知へ」という見出しで、小さくではあるが報道されている。しかし、新聞報道は空襲直後の速報で数字に間違いもあり、戦後の『高知市戦災復興史』では、こうまとめられている。

昭和20(1945)年7月4日:午前2時、B29編隊50~80機潮江地区、小高坂方面、市街中心部に油脂焼夷弾大量投下。罹災面積4,186,446平方m、罹災戸数11,912戸、罹災人口40,737名、被害人員712名(内訳死亡401名、重傷95名、軽傷194名、不明22名)、被害建築11,912名(内訳全焼壊11,804戸、半焼壊108戸)
(総務省「高知市における戦災の状況(高知県)」より)

高知の死者401人、自国の「制空権」を失う恐ろしさ

終戦1カ月前のこの時期、日本は既に自国の「制空権」を失っていた。全土がアメリカ軍のターゲットになり、ほとんど迎撃はできない状態で、毎日、毎晩のように戦闘機が飛んできて爆弾の雨を降らせていた。高知大空襲の体験談にも「(B29の連隊は)監視隊の人の話では、太平洋をどうどう低空(飛行)できた」とある。

ADVERTISEMENT

空襲がどんなに恐ろしいかということは、2025年の今、破壊され尽くしているガザの惨状を始め、イスラエルとイランが長距離ミサイルを撃ち合い、テルアビブやテヘランという大都市が爆撃され、両国で暮らしていた日本人が陸路で退避中という現実からも、とてもリアルに感じられる。

7月4日の四国・中国地方空襲のアメリカ軍作戦資料が公開されているが、「ターゲット・ヒメジ」、高知を爆撃する「ミッション」などの英語を見ると、綿密な計画の下で空襲が行われたことが実感できて、より恐ろしくなってくる。当時のアメリカ軍にとっては遂行すべき軍事作戦であったわけだが、軍事施設だけではなく、一般市民が住むエリアを爆撃する必要はあったのだろうか。